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(Greg Gordon, Communion, Baptism and Headcovering 、ゴードン師の許可をいただいた上で、2015年8月、翻訳いたしました。)


聖餐、バプテスマ、被り物について


感謝して裂き、そして言われた。「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい。」1コリント11:24



我々の主は、次の世代に伝えるべきことを、弟子たちに明確に教え示された。

新契約の中における外的なシンボルや儀式として、我々は主として三つのものをとり上げることができる。―パステスマ、聖餐、そして被り物である。

そもそもなぜ我々イエスを信じる者は、上の三つのことを行なっているのだろうか。それらが大切だからであろうか。世的な視点でこれについて考えてみるなら、やはり奇妙な感を免れえないだろう。

ここで一つ助けになるのは、そういった外的なシンボルが「いったい何を表しているのか?」と考えてみることである。

例えば、バプテスマ。これは――主の死と自分たちのそれとを同一化させ、それによって我々の罪が洗い流され、新しいいのちに生きるという――死と復活を表している。

それから聖餐。これは我々の罪を赦し、贖うため十字架上でご自身を犠牲になさった主のみからだと血潮を覚えるためのものである。

そして被り物。これは神の秩序に従う教会を表しており、また御使いやもろもろの権勢に対するしるしともなっているのである。

こういったシンボル自体は、単なるシンボルにすぎない。しかし我々が従順に主に従う時、それらは聖なるシンボルとなるのだ。なぜか。

なぜなら、それらは、偉大な霊的リアリティーおよび真理を示しているからである

我々は実にシンプルな心でそれらを実践するのであるが、それによって、我々は――これまでずっと同じシンボルを用いてきた――2000年以上に渡る壮大な教会史の中に自らも参入していくのである。なんと喜ばしいことであろう!

このように礼拝していく時、我々は、雲のように我々を取り巻く歴代の証人たちと分かちがたく結びついていくことができるのだ。

主が仰せになったことに再度、焦点を合わせていくことで、我々の集会は、神ご自身を中心としたものへと変えられていくだろう。さらに、「初代の信者も同じことを実践していたのだ」ということを知ることは、我々の心に平安をももたらす。

文化は刻々と変わっていく。しかし主の教会は変わらない。

それぞれの文脈、国ないしは文化の中で、(多少外観に違いはあれども)我々はこういった基本的な伝統および教会のシンボルを保っていくことができるのである。

それゆえに、こういったシンボルは偉大な重要性を帯びており、実際、失われつつあるこの世に向かって、次のように語り始めるのである。

―「ここに霊的リアリティーがあります!そして、それはこの世を超えるものです。それゆえに、私たちはこういった外的なしるしを実践しているのです」と。




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