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(ギリシア アルカディア地方)


親愛なる姉妹。あなたの現在通らされている苦しみについて、私がどれほど同情しているのか言葉では表現できないほどです。

しかしながら同時に、私の悲しみにはまた、慰めも加わっています。

神はあなたを愛しておられます。なぜなら、神はあなたを放置したままにしておられないからです。

そうです、神はあなたの上に、イエス・キリストの十字架を据え置いておられます。

どんな光であっても(たとえ我々がどんな感情を持していたとしても)、それが――自己に死ぬという――リアルにして継続的な働きに導くものでなければ、それは幻想に過ぎないのです。

そして苦しむことなしに、死ぬことはできません。

また、未だに私たちの中にどこか生きている部分が少しでもあるうちは、私たちは「死んだ」とは言えないのです。

その死をもって、神は魂を祝福してくださるのですが、それは、魂と霊、そして関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通します。

そして、――私たち自身は見ることのできない――私たちの内にあるものをご覧になっておられる主は、どの部分に一撃が落とされるべきなのかを完全にご存知です。

そうして主は、私たちが「どうしても放棄したくない」と渋っているまさにその部分を取り除かれるのです。

痛みというのは、命がある部分でのみ感じられるものです。そして、自己の命が存在する部分―そこの場所にこそ、が必要とされるのです。

私たちの御父は、すでに死んでいる部分に切り込みをいれるような時間の無駄はなさいません。

もし主がそういった命を生きながらえさせることを良しとされるなら、そうなさるはずです。

しかし実際、主は自己というものを打ち壊すことをお望みになっています。そしてその業は唯一、未だに生きていて動いているその部分に切り込みを入れることによってのみ、達成されうるのです。

あなたが主に自身を明け渡した時に永遠に否んだ、あの醜く邪悪な欲望の部分を、主が再び取り扱われることはないでしょう。

しかしながら、主はもしかすると、あなたの魂の自由を打ち壊したり、あなたの最も拠り所としている霊的なぐさめを取り除かれることによって、あなたを試すことはあるかもしれません。

それに対して、あなたは抵抗を試みますか。おお、そのようなことが決してありませんように!

無題
François Fénelon(1651 – 1715)

すべてを甘受なさい。この自己死というものは、あくまで自発的なものでなければならず、あなたが自ら進んでそれを死に渡す―その意思の程度に応じてのみ、それは成就され得るのです。

このように死に抵抗し、その進行を阻もうとすることは、自ら進んで死ぬことを意味しません。

従って、あなたが寄り頼んでいるすべてのもの――たといそれが最も霊的なものであっても――主がそれらをあなたから取り上げるのを良しとなさる時、自ら進んで、神の善きご意志に明け渡しなさい。

何を恐れているのですか。「おお 信仰の薄い者よ。」

それとも、(主があなたからお取り上げになるかもしれない)人間的な慰めを、主だけではあなたに備えることはできないと考え、それを恐れているのですか。

主があなたからそれをお取り上げになるのは、ご自身がそれを直接あなたに備えるため、そして痛みを伴う教訓によりあなたを清めるために他ならないのです。

そうです。すべての出口は閉ざされています。

神はあなたの内でご自身の業を成し遂げるべく、あらゆる人間的な方策や出口を塞がれるのです。

主はねたむ神です。そして主は、ご自身があなたの内で成し遂げようとされていることに対し、あなたが(主なる神以外の)他の誰かに恩義を感じることを良しとされないのです。

主のご計画にあなたご自身をお委ねなさい。

ご自身の摂理の中で、主が望まれるところへならどこへでも導かれていきなさい。

神が「そうしてはいけない」とあなたにおっしゃっているにも関わらず、それを無視し、あえて(被造物にすぎない)人間から助けを得ようとする試みに十分気を付けなさい。

(他の)人間は、あなたに与えるようにと、主が彼らにお与えになったものしか、あなたに提供することはできないのです。

「ああ、もはや水道から飲むことができなくなった」となぜあなたは嘆くのですか。

――ご覧なさい。あなたは今や、絶えることのない泉そのものに導かれており、水道の水はそこから引き出されているに過ぎないのです!


ーフェヌロンの書簡集より
私訳


心の家―エミー・カーマイケルの詩

日々、キリストの死を告げ知らせる―真実の礼拝を求めて(6)