[相補主義] ブログ村キーワード
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(ギリシアの田舎、ペロポネソス半島)


はじめに

みなさんご存知のように、私はこのブログの中で、クリスチャン女性の被り物について(1コリント11章)、いろいろな記事を書いたり紹介したりしています。

また女性の恭順や、内面的・外面的な慎み深さなどのテーマでも証しを書いています。

それらは元々、異なる時期に、主が私の目を開き、その結果、悔い改めに導かれたり、示されたりしながら、一つ一つ私自身が学び、体得していったものです。

その後、何年かして、The Council on Biblical Manhood and Womanhood(聖書的男性像および女性像のための協議会)の刊行する出版物を手に取る機会が与えられ、「どんな本なのだろう?」と何気なく読み始めたのですが、最初の数ページを読んだだけで私はびっくり仰天してしまいました。

そこに書いてある専門用語こそ私には不慣れなものでしたが、内容は実に分かりやすいものでした。

いや、分かりやすいというよりも、私はすでにその趣旨を(それ以前に辿って来た、自分なりの素朴な探求の過程で)「体験的に知っていた」と言った方が適切かもしれません。

そして教会や家庭の中での男女の役割や、クリスチャン女性の価値観などで、自分のような聖書理解および志向を持って生きているキリスト者のことを、「相補主義」クリスチャンというのだということをその時はじめて知りました。

相補というのは、文字通り、男女が(互いに競い合うのではなく)お互いを補い合う存在であるという意味で使われている言葉です。

英語で「相補」は、complementですが、英和辞書で引くと、「~を補って完全にする。~を補足する。~の良さを引き立てる。」等の意味があります。

ですから、みなさんが、私の書いている聖書的男性像・女性像について、基本的に同意してくださり、共感してくださっているのなら、みなさんも、いわゆる「相補主義」という立場にたつ信仰者ということになるわけです。

しかし、そうは言っても、私は個人的に、「~~主義者」という言葉で自分や他の兄弟姉妹をカテゴライズすることにとても躊躇を覚えています。

さらに言えば、私は自分や他の兄弟姉妹を、教団教派の名前や、主義主張の種類によって、ある名称で「くくること」さえ、できることなら避けたいと思っています。

なぜなら「くくる」行為は、(その行為の動機がいかに純粋なものであっても)不必要な分裂を招く可能性を作りだし、さらには、「くくった」囲いの中にいること、その「主義者」を名乗っているという事実の上に胡坐をかき、(自分も含め)その主張に実際には「生きていない」偽善者を生み出す可能性を秘めていると思うからです。

私たちキリストを信じる者に与えられている聖書的名称はただ一つ「キリスト者 Χριστιανός」(使徒11:26)であって、カルヴァン主義者でも、プロテスタント主義者でも、福音派・聖霊派でもないと思っています。

にもかかわらず、なぜ私は今日、相補主義および、それに対立する対等主義についてわざわざ記事を書こうとしているのでしょうか。

実をいうと、今もあまり「乗り気で」書いているわけではありません。

しかしながら、さまざまな異なる教えにあふれる現在のキリスト教界にあって、やはり最低限、自分の使っている用語の定義ははっきりさせておく必要があるでしょう。

そういうわけで、以下、相補主義と対等主義について少しご説明したいと思います。

☆☆

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ことの起こり

福音主義教会内に、相補主義および対等主義という二つの立場が生まれたのには理由があります。

1960年以降、主に米国の神学界を中心に、フェミニスト神学が勃興してきました。

そして「男女同権」を主張しつつ、これまで男性だけに開かれていた牧会職を女性にも開放するよう運動を起こしました。また、フェミニスト神学は、「ジェンダー」という新しい視点で、男女にかかわる聖書の箇所を次々と「再解釈」し始めました。

リベラル派の教会は早い時期から、この新しいイデオロギーを受け入れ、新しい聖書解釈を取り入れていたのですが、やがて、福音派の中にも、そのような主張をする人々が現われてきたのです。いわゆる「福音主義フェミニズム Evangelical Feminism」の誕生です。

こういった動きに対し、聖書信仰に立つ福音派のクリスチャンは警戒心を募らせました。

もともと福音派は、自由主義神学に対する対抗勢力として生まれ、リベラル的聖書解釈を拒んできたグループです。

著書の中で、ウェイン・グルデム氏は、自由主義神学者たちの聖書解釈法と、福音主義フェミニストたちの聖書解釈法に類似性があることを指摘し、「(フェミニスト神学を受容することで)これまで自由主義神学を拒んできた福音主義は、ついにリベラリズムへの街道を下っていくことになるだろう」と鋭い指摘をしておられます。

こうして、「あくまで従来の聖書的男性像・女性像および教会・家庭における男女の役割を保っていこう」というキリスト者と、「いや、この新しい流れを受け入れよう」というキリスト者との間で意見の対立が生じてきたのです。

やがて前者は「相補主義 complementarianism」、そして後者の立場は「対等主義 egalitarianism」と呼ばれるようになっていきました。

☆☆

両者の根本的な違い

相補主義と、対等主義の根本的な違いは、何をもって男女が平等(equal)であるか、という捉え方の違いにあるといえます。

相補主義のクリスチャンは、男女は(神のかたちに創造された存在として)その本質において全く平等であり、等しい価値を持つ。けれども、それぞれが担う役割(および機能)においては違いがあると考えています。

それゆえに、教会・家庭において、(男女の本質に優劣の差はないけれども、役割として)聖書に書いてあるとおり、男性がかしらとしてリーダーシップをとることが正しいと考えているわけです。(家庭のモデル:エペソ5:21-33、教会のモデル:1テモテ2:11-3:7、テトス2:3-5等)

一方、対等主義のクリスチャンは、「男女はその本質においても、役割(機能)においても、男女間に違いはない」という考え方に立っています。

それゆえ、教会において、家庭において、(男性だけでなく)女性のリーダーシップも同じように奨励されるべきだとこういった方々は考えています。

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ジェンダーの相違は、
堕落前の「祝福」それとも堕落後の「呪い」?



対等主義クリスチャンにとっての「マグナ・カルタ」は、ガラテヤ3章28節です。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。



そして、この節を元に「だからキリストにあって、もはやジェンダーの相違はない」と、こういった方々は主張しています。

また、対等主義では、ジェンダー間の相違は、人類の堕落(Fall)によって生じてしまった呪いであり、キリストの贖いによってそういった相違は取り除かれたのだと考えています。

一方、相補主義においては、ジェンダー間の相違は、神の創造(Creation)の結果であり、呪いではないと捉えています。(1テモテ2:15のパウロの教えにも注目してください。)

また、前述のガラテヤ3章28節ですが、ここでパウロは「教会における女性の役割」について言っているのでしょうか。

また、この一節をもって「キリストの贖いは、男女というジェンダーの相違を取り除いた」と結論づけることは果たして理に適っているでしょうか。

この章全体を読むと、みなさんよくご存知のように、「信仰」と「律法」のことが詳しく述べられています。

人は律法の行ないではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるということ、律法によるのではなく、「信仰による人々こそアブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)とパウロは力説しています。

現に、「ガラテヤ3章28節」のすぐ後に続く節を読んでみてください。

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(29節)



つまり、もし私たちがキリストを信じ、キリストのものとされるならば、それによって私たちは、国籍や身分や性別の違いにかかわらず、アブラハムの子孫であり、信仰によって義とされ、約束による相続人となる、ということが述べられているのです。

ですから、ここで「教会の中における女性の役割の問題」を持ち出したり、女性牧師を正当化する根拠にしたりすることは、お門違いであり、文脈を無視した強引な解釈だと言わざるをえません。


無理な解釈

しかし今、百歩譲って、この主張が正しいとしましょう。

パウロがこのガラテヤ書を執筆したのは紀元53年から55年頃だと言われています。

ですから、この主張が正しいとするなら、この時期、パウロはいわゆる「フェミニストのマグナ・カルタ」と言われているガラテヤ3章28節を書き、教会における女性のリーダーシップにゴーサインを出したということになります。

ところが、です。それから約十年後(紀元63年頃)、パウロはテモテに牧会書簡を書き、前述の「マグナ・カルタ」を全くくつがえすようなことを強い口調で言っているのです。

11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。(1テモテ2:11-15)



パウロはここで創造の秩序を根拠に、女性が男性を教えたり、支配したりすることを禁じているわけですが、それなら、あの「ガラテヤ3章28節」は一体何だったのでしょう?ここに大きな矛盾が生じてしまいます。

ですから、こういう意味でも、ガラテヤ3章28節を、フェミニストのマグナ・カルタとして解釈することは「誤」ということになります。


(2)へ続きます。



「相補主義」と「対等主義」について――福音主義教会を二分する二つの視点 【ジェンダー問題】(2)

神の聖なる人々―主の臨在のうちに生きる