[相補主義] ブログ村キーワード
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まず初めに「神のことばありき」それとも、
「イデオロギーありき」?



以前の記事の中にも書きましたが、今回、もう一度申し上げます。フェミニスト神学においては、「主」と「従」の関係が逆になっています。

私たち被造物にすぎない、そして罪びとである人間は、永遠の神の御言葉を畏れと崇敬の思いをもって読み、日々、御言葉によって、自らが変えられ、矯正され、悔い改めに導かれ、新しくされることを望んでいます。

つまり、神および神の御言葉が「主」であり、私たちはあくまで「従」なのです。

一方、フェミニスト神学においては、まず頑として主張されるべき「イデオロギー」というものが王座にあります。

「まず神のことばありき」ではなく、「イデオロギーありき」なのです。

そしてこの「イデオロギー」という鋳型(mold)に合わせて、神の御言葉は取り入れられたり、剪定されたり、ねじられたり、よじられたり、付加されたり、削除されたりしています。

つまり、ここでは私たち被造物が「主」となっており、主なる神はあくまで「従」にすぎないわけです。(この点について、私は以前に、キリスト中心の福音と人間中心の福音という記事を書きました。)


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役割における「違い」と「優劣」を混同してはいけない


相補主義および対等主義それぞれの主張に耳を傾ける際に、私たちが気を付けなければならないのは、Equality(平等、同等)という言葉の用いられ方と意味だと思います。

対等主義のみなさんの誤解は、(男女における)機能および役割の「相違」を、「優劣」と同一化して考えてしまっているところにあります

本質(nature)における男女の平等および等価値性と、機能・役割(function, role)における「違い」を分けて考えることができずにいるのです。

聖書の真理によれば、牧会職は女性の「役割」ではないとされています。

しかしそれは私たち女性の価値が男性より「劣っていること」を意味するのでしょうか。もちろん違います。(このテーマに関しては、ストレスを抱え傷つき苦しんでいる女性の牧師先生および教職のみなさまへという記事を前に書きました。)


かしら(headship)について


最後に、かしら(headship)のことについても少し触れておきたいと思います。

「女のかしらは男(1コリント11:3)」であるという聖書の真理があります。

しかし現代人はこれをすぐに「男女差別」だとか「女性蔑視・抑圧」と捉えがちです。しかし、同じ節に、「キリストのかしらは神」と書いてあります。

それでは、これは「抑圧的・差別的な」父なる神による「キリスト差別」「キリスト蔑視・抑圧」となるのでしょうか?断じて、否です。

御父と御子は本質において全く等しい存在です(ヨハネ10:30等)。その一方、御子は、かしらである御父に「従われました」。

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。1コリント15:28



もちろん、ここで御子が御父に「従う」ことは、御子を御父より「劣った」存在にすることにはなりません。

このように、「本質における等価値性と、役割・機能における相違」は、男女のことだけにとどまらず、私たちが三位一体の神について深く知っていく過程においても、とても助けになります。

(このテーマ、つまり三位一体の神における“ontological equality but economic subordination” “equal in being but subordinate in role”については、いくつか詳しい論文が出されています。詳しくはWayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 14. Trinity,
p.251をご参照ください。)


おわりに


水野源三さんが、「生きる」という題で次のような素朴で美しい詩を書いています。


神様の大きな御手の中で

かたつむりは かたつむりらしく歩み

蛍草は 蛍草らしく咲き

雨蛙は 雨蛙らしく鳴き

神様の 大きな御手の中で

私は 私らしく 生きる




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神様の大きな、大きな御手の中で、私たち被造物は生かされています。

創造の秩序(Creation Order)は私たち人間を縛るものではなく、女性を劣った存在にするものでもなく、逆に私たちを真に自由にし、男性が男性らしく、女性が女性らしく生きていくことを可能にする神の知恵であり、愛の顕れであります。

昨今、神様のお造りになったこの美しい創造の秩序に対し、反抗のこぶしを突き上げる動きが、世の中でも、教会の中でも起こってくるようになりました。

こういった動きに対してどうするのか?――聖書を神の言葉を信じるクリスチャンは今、それぞれが主の前に静まり、(人や自分の所属する機関にではなく)まず創造主なる神に、「応答」していくことが求められていると思います。

「相補主義」および「対等主義」は、神学論争という枠をはるかに超え、私たち信仰者一人一人の生き方、ものの考え方、家族・人間関係に深い影響を与えている二つの視点、二つの歩み、そして二つの信仰のあり方です。

そして神の御言葉を前にした二つの姿勢です。


あなたはどちらの道を歩んでいますか。



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