IMG_0385.jpg
(いちじくの実、ギリシア)

Dan Lucarini, Why I left the Contemporary Christian Music Movement(「私がCCM運動から身を退いた理由」)より一部抜粋します。

―私はおそらく、(このような本を書くことで)教会の最も強固な要塞に挑戦を挑んでいるのでしょう。

CCMは今や、がっちりと塹壕を掘りめぐらせているため、福音主義教会の大多数によって支持されている音楽スタイルになったのではないかと思います。

CCMは多くの信者の人生の中に深く根を下ろしているため、私の本を読んで、かなりつらく感じる方々もおられると思います。

―また牧師の中には、私の言うことに不快感を感じる方もいらっしゃるに違いありません。なぜなら、彼らもまた、この運動を受容してきたからです。

しかし私はあえて申し上げたいと思います。CCMを教会礼拝の中で用いるというのは作為の現象であり、この実態は光の元にさらされるべきです。

というのも、これはしっかりとした聖書的土台に欠いており、神に受け入れられる礼拝とされるべく、主がお授けになった掟をないがしろにしているからです。

―これを礼拝で用いることによって、私たちは肉的なライフスタイルを人々に奨励してしまうことになります。(p18)

―〈誰をも裁きませんよ〉という雰囲気作りのため、牧師たちは、「神様はありのままのあなたを受け入れておられますよ」的な哲学を奨励してきました。そうしてCCMとこの哲学は手に手を取り合って進んできたのです。

ある牧師がドゥービー・ブラザーズのロックコンサートに行ったのですが、その後、自分がそこに行ったことを正当化するために彼はこう言いました。

「もしイエス様が今日生きていたら、主もあのコンサートに行っていただろう。なぜなら、主は罪びとと共に過ごされる方だから。」

こういった教えのなされる所では、自分の人生に神様を受け入れはしたいけど、ライフスタイル自体は変えたくない、――そういう種類の人々を教会に惹きつけてしまうのです。(p28、29)

―私は告白します。CCMの賛美リーダーであることは、私のエゴを非常に強く満足させるものでした。

自分に寄せられる尊敬や称賛は、(救われる以前に経験していた)ロックスター時代のあの興奮を思い出させるものでした。

でも当時、私はこの事実に盲目でした。なぜでしょう?それは、こういった自己賞揚が、「ありのままで愛されている」的クリスチャン・フォーマットのオブラートで包み隠されていたからです。(p32)

―なぜ米国CCM界を去らなければならないのか、、、まず第一に、私はCCM哲学を支えている前提そのものをもはや受け入れることができないからです、、、

私たちの支柱とはこれでした。つまり、「音楽は、道徳とは無関係のものである(amoral)」という前提です。

彼らによると、神はあらゆる種類の音楽スタイルを受け入れておられる。そして各自の好みや趣向に対して口出ししたり、裁いたりしてはいえない、と。私はこういった主張について調べようと、聖書を掘り下げたのです。

でも分かったのは、そういう考えは、人間中心的であり、非論理的であり、基本的な聖書の原則を正しく反映していない、という事実でした。

二番目に、「真の礼拝とは何か」「神の臨在の中にあるとはどういう意味か」ということを聖書の中に求めていく過程で見えてきたのは、あまりにも低俗で下品な音楽と、それからそれに伴う下品な服装で、礼拝をささげ、聖なる神に賛美をしているという、私たち世代のなしている恐るべき事実でした。

三番目に、結婚生活を清く保ち、すべての事において神に誠実であるために、私は誘惑に溢れているCCMの現場から身を引き放す必要がありました。

そうです、米国CCMの現場は、自己満足と、それから、賛美チームの女性メンバーたちに対する肉的魅力をあおる環境で満ち満ちていました。(p34)

―キリストの弟子になるということは、自尊心の旅ではないのです。成長は変化を意味し、変化にはいつも喪失が含まれます。そして喪失というのは常に痛みを伴うものです。

私たちは古い自分の習慣や楽しみなどをいつまでもそのまま保ち続けることはできません、、

「そのままのあなたでいいんですよ。神様はね、今のあなたをそのまま受け入れてくださっているんですよ」という教えは、現代の世俗社会で流行している〈寛容 tolerance〉の動きと密接なつながりを持っています。

―真摯な求道者のみなさんは次のことを知るべきです。

つまり、この「ありのままのあなたでいいんですよ」というキャッチフレーズの元に説かれている神の無条件の受け入れというのは、誤った教えであるということです。

わたしたちは罪を告白しないまま、あるいは罪をないがしろにしたまま、あるいは罪をここかしこにぶらさげたままの状態でありながらも、依然として、「自分は主に受け入れられるだろう」と期待してはいけません。

自分好みの世俗音楽、この世の服装、この世の言葉を教会に持ち込み、そして主からの祝福を期待することはできないのです!(p38-40)

―この〈寛容〉の教えはクリスチャンの間であまりに浸透しているため、私たちはもはや、仲間のクリスチャンの(問題ある)言動について問うことさえ許されない、そんな環境に生きています。

あなたが愛をもって、仲間の信者の問題行動に向き合ったとしましょう。そうするとあなたは「他人を裁く者」として非難されます。

その際に、聖句などを引用しようものなら、あなたはすぐにパリサイ人呼ばわりされるでしょう。

そしてもし教会が、誰かの個人的な言動について何かを言おうものなら、その教会は、律法主義的な教会という風にみなされます。、、

こういった〈寛容〉の教えの支配する新しい教会においては、この世への愛着およびそういった行動に対して寛容を示すことは、聖書的な識別を行なっていくことよりもずっと大切な事とされています。

、、こういった偏った雰囲気の中にいるからこそ、(CCMのあり方に疑問を抱いている教会員が)教会の音楽スタイルについて意見の声をあげることに恐れを感じているのです。p40、41


ーおわりー


IMG_0210.jpg
地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。
来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。 詩編95:4、6


IMG_0224_201508300150562ec.jpg
天は喜び、地は、こおどりし、
海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
野とその中にあるものはみな、喜び勇め。
そのとき、森の木々もみな、
主の御前で、喜び歌おう。 詩編96:11、12


IMG_0292_20150830015641004.jpg
天は主の義を告げ、
すべての国々の民は、主の栄光を見る。 詩編97:6


IMG_0318.jpg
神よ。私の心はゆるぎません。
私は歌い、
私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。

神よ。あなたが天であがめられ、
あなたの栄光が全世界であがめられますように。 詩編108:1、5



追加資料
CCMがイマージング運動につながっていく理由(その1)

CCMがイマージング運動につながっていく理由(その2)


スポンサーサイト

見よ、神はここに!―ゲルハルト・テルステーゲンの詩

クリスチャン・ロックは「若者伝道」のために有益なものなのでしょうか。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。