第二章
   第一回公開討論会 チューリッヒでひらかれる


スイス美しい光景


温かくかび臭い家畜小屋の中で、マルクスは牛の乳を搾った。バケツに注ぎ込まれる乳の音、肥やしをつつきながらコッコッと鳴く雌鶏、時折聞こえる子牛のいななく声――こういったものが家畜小屋の音であったが、それに交じって早朝外からの吹き寄せる風の音もきこえていた。

ホッティンガー家のいとこであるルツフとヘイニーが、木を刈りにゾリコン村裏の丘を登りながら、二人で調子を合わせて口笛を吹いているのがマルクスの耳にきこえた。

丘の下の方では誰かの犬が吠えている。おそらく湖畔のハンス・ミューラーの所の犬だろう。近くの松の木でユキヒメドリがさえずっていた。そしてマルクスの耳に、妻が朝食を準備しながら歌っているのがきこえてきた。

牛が落ち着きなくモゾモゾしている。もう乳が出尽くしたという徴候だ。最後の一絞りを済ませてから、マルクスは立ち上がり、縁までいっぱいになったミルク桶を台所に運んでいった。

灰色でどんよりした暁の空が明けようとしていた。そして昨晩降ったばかりの雪を鈍く照らしていた。空気は冷たかったが、風は止んでおり、マルクスには昨晩より暖かく感じられた。

マルクスは再び、靴屋で交わした会話のことに思いを馳せていた。そして上の空で、いつも長靴を置いているドア脇にミルク桶を置き、長靴を中に運び込んだ。

「マルクス、あなた、まだ目が覚めていないのね。」若妻は、くすくすと笑いを噛み殺しながら尋ねた。

マルクスも思わず笑い出し、すぐさま長靴を元の場所に戻し、ミルクを取ってきた。「いや、違うんだ、レグラ。」彼はニコッと笑って言った。「眠っていたんじゃない、ただぼーっと考え事をしていたんだ。」

「そう、それで、あなたの考え事っていうのは何についてだったのか、きいてもいいかしら。」レグラは夫に近づき、手を彼の肩にかけた。彼女は笑いながら彼の目をのぞきこんだ。

「いや、別にたいしたことじゃない。昨日の夜、僕が靴屋にいた時、フリードリー・シュマッヘルとヨハン・ブロトゥリーが話していたことについて、考えていたんだ。」

妻のレグラ・ボシャートは、辛抱強く、マルクスの説明を待っていた。「ブロトゥリーは公開討論に参加するために、今日、チューリッヒに行く予定なんだ。洗礼についての討論だ。ブロトゥリーが幼児洗礼についてどう思っているか、君も知っているだろう。」

「ええ。」

「そう、その一方で、ツヴィングリは旧来の慣例を擁護するってわけだ。ツヴィングリと討論するにあたって、――参事会はブロトゥリーたちに平等な発言の機会を与えてくれないんじゃないか――って、彼は心配しているんだ。実際、彼はぜったいそうなるに決まっているって言っていた。前回も、彼らが討論した際、彼らが何か言おうとするたびに、ツヴィングリが話の腰を折ったんだ、、、ブロトゥリー曰く、『私らに、一言も言わせず、押さえ込んだ』って。」

「ブロトゥリーたち?『たち』ってことは誰か他にもいたの。」
レグラは当惑して尋ねた。彼女は絞りたてのミルクをカップに注ぎ、四人掛けの食卓を整えた。

「僕自身、よく知らないんだ。ブロトゥリーは、コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツのことを言っていたな。おそらく彼らは幼児洗礼に反対している側の指導者なんだと思うよ。それから、グリソンズ出身の誰か新しい人のことも言っていた。ブラウロックとかいう名前だったかな。」

「それから、ヴィルヘルムは?もちろん、ヴィルヘルムもいたんでしょ、マルクス。」
「もちろん、そうだ。もし早朝チューリッヒに発ってしまっていなかったら、朝、ここを通過するはずだよ。おそらく、幼児洗礼に反対の声を挙げた、全国初の祭司が、ヴィルヘルム・ロイブリーンだったんじゃないかな。」
「そして、結婚した初めての祭司でもあるわね。」 レグラは付け加えた。

「そう、彼が第一号だったね。でも、ブロトゥリーもそのすぐ後に結婚したね。いろんな意味でこの二人には共通点が多いけれど、ヴィルヘルムは、ほとんどブロトゥリーの父親位の年齢だ。幼児洗礼反対論にしても、ヴィティコン村でヴィルヘルムが説教しているやり方は、うちらの村でヨハン・ブロトゥリーが説いているのとまさに同じだ。そして二人ともそれに関する州法に触れたかどで、目の敵にされているんだ。」

「そしておそらくこれからも大変なことになっていくでしょうよ、マルクス。」心配そうな声色で若妻は言った。「あなた、ヨハンと話し込みすぎたんじゃないかしら。あなたが牢に入れられるなんて考えられないわ。」彼女は近づき、彼のシャツの袖口を握りしめた。

「馬鹿なことを言うのはおよし。」マルクスは笑った。
「僕のことは心配無用。僕は祭司でもなければ、伝道者でもない。どうしてヨハン・ブロトゥリーと話していけないことがあるんだい?彼は僕の義理の兄と一緒に暮らしているんだ。それだけでも十分な言い訳になる。それに、僕が彼を見かけるのは多くて週に一回ってとこがせいぜいだ。そんなに心配したかったら、むしろフリードリーの奥さんのことを心配してあげたほうがいい。なんといっても彼女は君のお姉さんだ。それに彼女とヨハンの奥さんは、四六時中、一緒にいる仲ときている。」

レグラは暖炉からスープを運んできて、食卓に置いた。

マルクスは賞賛を込めた目で彼女を見つめた。「僕はゾリコン村で一番の器量良し娘と結婚した。」とマルクスは常々思っていた。

「お父さんはまだ起きてないのかしら。」レグラは尋ねた。「それにヴァレンティンは。朝食の用意はできていてよ。」

「君の父さんは、チューリッヒに行く荷造りをしているところだ。」マルクスは言った。「お父さんを呼びにいってくるよ。それにヴァレンティンも。」

マルクスは足取り軽く、石造りの家の階段を駆け上がり、二階に上がった。そして数分後、二人の男を連れて、階下に戻ってきた。一人はルドルフ・トーマン、ないしは一般に「小ルディー」として知られている、レグラの父であった。

ルディーは六十代の小柄で痩せた男で、頭は耳の上まで剥げており、早口かつ気さくな人物であった。妻は数年前に亡くなっていた。

ルディーの後からおずおずとついてきたのは、ヴァレンティンという雇い人だった。18歳にしてヴァレンティンの背丈は軽く180センチを超えていた。そして今もなお伸び続けているのだった。図体の大きさを隠すように、ヴァレンティンは前かがみに背を曲げて歩いていた。

三人の男は朝食の席につき、レグラはテーブルの端の席についた。
彼らが食べ始めるやいなや、ドアをコンコンと叩く音がした。マルクスは戸を開けに行った。

二人の男が、雪の中、戸口の上り段に立っているのに気付いた彼は、「さあ、どうぞ中にお入りください。」と彼らを招き入れた。

「ああ、でも僕らにはほとんど時間がない。そうだろう、ヨハン。」二人のうち年長の方がこう尋ねた。
「あんまりない。」 ヨハン・ブロトゥリーは答えた。「ほら、マルクス」 彼は説明した。「ヴィルヘルムと僕はチューリッヒに向かっていて、公開討論が始まるまでに向こうに着きたいって思っている。でもフリードリーから、君のお義父さんが今日チューリッヒに行かれるってことを聞いたのだ。それでもしよろしかったら一緒に行きませんかとお誘いしようと思ってね。」

「今、義父に訊ねてみますので、どうか中に入ってお座りになっていてください。」と熱心にすすめた。「義父は今、朝食をとっておりますが、おそらく五分以内に準備ができると思います。」

ヴィルヘルム・ロイブリーンとヨハン・ブロトゥリーは家に入り、腰をおろしたが、マルクスが見たところ、彼らはそわそわしていた。彼はすぐさま二人の来客の要件を、義父に伝えた。

「彼らと同伴できるなんて光栄な限りだ。」 すぐさまルディー・トーマンは答えた。「あと二、三切れ、口にほおばるまで、ほんの少しだけ辛抱してくださるなら、私はすぐに出発できます。」客間でいる二人に向かって、もう少し大きな声で彼は言った。「私らと共に、少し朝食を召しあがりませんか。」

「ありがとう。でも、朝食は済ませてきました。」と答えが返ってきた。
「あんたがたに保証するよ。」ルディーは食べながら早口で続けた。「私は、老人だけどね。チューリッヒまでのろのろと歩いてはいかないよ。今待たせてしまっているけど、安心なさい。なぜって、私は早いペースで歩くから。我々は、遅れるどころか、早めに着くだろうよ。」

マルクスは思わず笑ってしまったが、確かにルディーの言葉は、当を得たものであることを知っていた。
ヨハン・ブロトゥリーは、おそらくこの精力的な小老人と歩調を合わせることができるかもしれない。でも丸々太ったヴィルヘルムが雪道を、ハアハア息を切らしながら、やっとの思いでついていく様子をマルクスは想像してしまった。

「マルクス、君も一緒に来たくはないかね。」ヨハンは尋ねた。
「まあでも、僕はチューリッヒにこれといって何の用事もないから。」マルクスは答えた。
「でも公開討論は、、、」

「うーん、今回の討論会は、僕にとってあまりに深くてついていけないと思う。」とマルクスは赤面しながら言った。「僕には何が何だかさっぱり分からないんだ。自分の領域外ってところだな。僕はあくまで農民だ。」

「いや、君にも理解できると思うんだけどな。」ヨハンはやさしく言った。
「いつ戻ってくる予定なの。」マルクスは尋ねた。

ヨハン・ブロトゥリーの顔に一抹の不安がよぎった。「それは分からない」彼は説明した。「みこころなら、ヴィルヘルムと僕は数日以内に家に戻りたいと思っている。でもどうなるかは分からない、、、」

「そして私らの妻たちのことだが」とヴィルヘルムは付け加えた。「うちの女房が今朝、ゾリコン村に来たんだ。それで我々が戻ってくるまで、うちのはヨハンの奥さんと一緒にいられるってわけだ。」

その言葉をきいたレグラはすぐに顔を上げた。「アデルヘイドさん――でしたよね――彼女がヨハンとフリードリーの家に今滞在されているんですか。」彼女はおずおずと尋ねた。

「そうです。」ヴィルヘルム・ロイブリーンは答えた。
「それなら、彼女に会いに出掛けなくちゃ。」
「ああ、どうかそうしてくださいな。女房は喜びますよ。そして、、、あなたが来てくれることで、私への心配もいくぶん緩和されると思います。」

と、ちょうどその時、ルディー・トーマンが服のボタンをとめ、腕に包み袋を抱えながら、急いで階下に降りてきた。「さあ」と彼は言った。「すぐに出掛けるとしよう。お二人さんが遅れたのは私のせいということにならないようにね。」
こうして三人の男は出掛けて行った。

マルクスは食卓の椅子から起き上がり、ぐいっと伸びをし、それからヴァレンティンに今日の雑用を言いつけた。そして彼は妻の皿洗いの手伝いに行った。レグラは驚いた。そして喜んだ。

☆☆☆

スイスの村

水曜の正午、ルディー・トーマンはゾリコン村の自宅にまっすぐ帰ってきた。チューリッヒでの仕事はうまいこといった。それに加え、午後の数時間、かの討論会に居合わせることができたのだった。その後、旅の道づれであった心優しいヴィルヘルム・ロイブリーンとヨハン・ブロトゥリーは、夕食を一緒にと彼にしいてすすめた。

「いやあ、夕食会が、キリスト教の集会になるなんて思いもしなかったよ。」彼はマルクスとレグラに言った。

「まだ食事もろくろく終わらないうちに、人々が来始めたんだ。コンラート・グレーベルがそこにいた。それにマンツ、そしてあの新顔のブラウロック。みんな討論会のことや、その後のことを話しておった。うまくいったと考えている者もいるにはいたが、大半は、こちらの得るところはあまりなかったと結論付けておった。参事会がどんな裁決を下すのか、次にツヴィングリはどういう出方をしてくるのか分からない中、昨晩、彼らは不安のうちにあった。そして今朝、、、」

「参事会は何か新しい法律を通過させたんですか。」マルクスは口をはさんだ。
「そうだ、新しい、でも実際には新しくない法律を、な。」ルディーは続けた。

「参事会は今朝、決議を下した。それによればだな。軍配は、ツヴィングリの側に上がった、と。よって、全ての新生児は洗礼を受けなければならない。そして、まだ洗礼を受けていない新生児は八日以内に受けるべし。これを遵守する意思のない両親は、州を離れて、どこか別の場所に住むべしと、こういう決定がでたのだ。参事会は未洗礼の幼児をそのままにはしておかないつもりなんだ。」

「参事会のそういった決定は、かなり堅いものなんですよね。」 考え深げにマルクスは言った。

「そりゃ、もう!」とルディーは語気を強めて言った。「赤ん坊に洗礼を授けない者を参事会が大目にみるなんていう期待は、あたかも、丘を動かそうとするようなものだよ。そんなこたぁ、ありえない話だ。」

「そして僕が考えるに、、グレーベルやマンツにしても、自説を変更するようなことはしないと思うね。」マルクスは言った。

「ああ、そんなことは絶対にない」 ルディーは力説した。「こっちの側はこっちの側で、彼らをあきらめさせるのは、山を動かすほどに難しいときている。あ、そうそう、この若いグレーベルと妻の間に、女の子が生まれて、その子が生後まだ二週間にもならないのを知っていたかい。」

この言葉に、レグラは興味を示して言った。「え、本当に。そしてその子はまだ洗礼を受けていないの。」

「ああ、受けていない。」ルディーは言った。「コンラートがそう言っているのを昨晩聞いたよ。『赤ん坊は女児で、名前はラケルという。ラケルはまだローマ教会の水桶で洗礼を受けていない』とな。彼の言い方からすると、次の八日以内にも洗礼を授けるつもりがないようだったな。」

「ああ、なんて滅茶苦茶なこと!」 レグラはため息をついた。「そしてかわいそうな赤ん坊たちはその狭間にいて、何が何だか分からずにいるのよ。」

「そりゃ、分からないだろうさ。」 ルディーはそっけなく言った。「しかし、わしの予感ではな、今後、事態はもっと悪くなっていくぞ。わしから見たら、これは思想のこう着状態だ。そして誰もあきらめるつもりはないときてる。でも、ツヴィングリは参事会を味方につけている。そして参事会はいざとなれば武力行使に出るからな。だから、もちろん、彼らが勝つに決まっているんだ。」

そう言いながら、ルディー・トーマンは鞄から商売の証書類を取り出し、計算を始めた。彼の中では、洗礼についての話し合いはこれで終わったのだ。

「でも、これから彼らはどうするんだろうな?」 マルクス・ボシャートは、半分は自分自身に、半分は妻に向かって言った。
「彼らって、誰のこと。」

「ブロトゥリー。それにヴィルヘルムのことだよ。それからグレーベルとフェリクス・マンツといった人達のこと。」
「彼らにどんなことができるっていうの?」レグラは尋ねた。

「分からない。」マルクスは答えた。「唯一、賢明なことといえば、あきらめることだと僕には思えるね。一方、ツヴィングリはそうはしない。それは確かだ。だって、彼は国家権力を盾に取っているんだから。」

☆☆☆

スイスの冬

こうして水曜は過ぎ、木曜日となった。そして木曜も過ぎていった。マルクス・ボシャートは暖炉用にするたきぎを切っているヴァレンティンを助け、それを丘から運ぶのに忙しかった。

そしてついに金曜日を迎えたのだが、依然としてチューリッヒからは何の知らせも来ていなかった。

金曜日の午後、レグラは靴工の店まで、姉とロイブリーン夫人、それにブロトゥリー夫人を訪ねて行った。ヨハンが夫人たちの様子を見に、正午頃、帰宅していたのだが、またチューリッヒに戻ったと彼女たちは言っていた。
「チューリッヒで自分は必要とされている」と言い、説明する間もなく慌ただしく去って行ったそうだ。

その後、土曜日の午後早く、チューリッヒから帰ってきた村人たちが、参事会の最新の動きをもたらしたのだった。

その知らせを聞いた時、マルクスは仕事に戻るところだった。すぐに彼は斧を取り下ろし、妻に話すために家の中に入って行った。ルディー爺もちょうど、昼寝から起きたところで、そこにいた。

「レグラ!お義父さん!」 息を切らせながらマルクスは二人を呼んだ。

「参事会がついに動いた。コンラード・グレーベルとフェリクス・マンツは州のどこであっても、教えたり説教したりすることが禁止された。彼らは完全に封じ込められた。つまり、聖書講読会もこれで終わりになってしまうんだ。爺さんはきっとがっかりするだろう。」

「こういう結果になるって、はじめから分かっていたよ。」指で歯を磨きながらルディーは言った。
「でも一番大きな知らせをまだ伝えていない」とマルクスは続けた。

「何なんだい?」ルディーは言った。
「参事会はここの州出身じゃない四人の男を追放処分としたんだ。つまり、、、」

「ヨハン?」レグラはささやいた。
「そう、ヨハン・ブロトゥリーは去らなきゃならない。」

「他は誰なんだね。ヴィルヘルムかい」 ルディーは尋ねた。
「そう、ヴィルヘルム。そして三番目は、チューリッヒで本屋をしている、あのびっこのアンドレアス。そして最後の一人は、僕の知らない誰かだった。」

「嫌なこった!」ルディー・トーマンはつぶやいた。「ヨハンはいい人だ。そして彼は誰をも害したことがない。ヴィルヘルムにしてもそうだ。」

「二人は八日以内に、州を去らないといけないんだ」とマルクスは説明した。「今日は土曜日だから、残るは来週だけってことになる。」

「出て行くのに、一週間しかないなんて。」レグラは、友人――ヨハンとヴィルヘルムの妻たち――のことを考えていた。「かわいそうに、たったの一週間なんて。」

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第3章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第1章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

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