Makulo-Creek-where-the-micro-hydro-will-be-constructed-916x608-916x549.jpg


流れのパターン


各時代に発生するさまざまなイデオロギーは、どのようにしてキリスト教会に入り込み、「できれば選民をも惑わそう」(マタイ24:24b)と工作してくるのでしょうか。

福音主義フェミニズムや女性牧師問題などを調べていて気付いたのが、一連の流れにはある「パターン」があるということでした。


〈流れの三段階〉

1)まず世の中で新イデオロギー(例:フェミズム)が発生します。

2)すると、この世と親和性があり、きわめて垣根の低い一部のリベラル教会がこの新思想に飛びつき、これを教会や神学の中に取り入れます。

3)時間が経つにつれ、最初はかなり警戒心を示していた保守的な福音主義教会の中にも、「ねぇ、これって案外いいんじゃない?うん、思ったより悪くないかも。」と考える人々が少しずつ出てきます。


こうして一つ、また一つと福音船に小さな空気穴が開けられていき、じわじわと船は浸水していくのです。

その意味で、2)のリベラル派の動きを見ることは、3)の浸水を未然に食い止めるためにも大切ということになると思います。


geranium_pusillum_small_flowered_cranes_bill_flower_13-07-06.jpg


包括訳――リベラル派の動き


米国のリベラル系神学校である、ウェスレー神学校は、1982 年に「教会における礼拝時の差別的用語撤廃について」というパンフレットを発行しました。

それによれば、「man、men、mankind」 は、
「people、men and women、humanity、persons 」などと変更されました。

また、「brothers 」や「brotherhood」は、
「sisters and brothers in faith」や「the family of faith」と置き換えられました。(参照

また、日本でもなじみのあるNCC(全米教会協議会)は、1980 年に「キリスト教における女性差別を解消する目的」で、聖句集委員会を発足させました。

そして当協議会は、1983年に『聖書』の前半の3分の1を検討し、性差別を排除した『包括的用語の朗読用語集』と題する聖句集の第1巻を出版しました。

そこでは例えば、
「God the Father(父なる神)」は「God our Father and Mother」、
「Son of God(神の御子)」は「Child of God」 に、
「Son of Man(人の子)」は「Human One」に置き換えられています。

委員会は1984 年に第2巻を、そして1986 年に『両性を含めた聖書の異本』3巻本を出したそうです。(参照


包括訳聖書 ついに市場に出回り始める


さらに1990 年になると、この方針にのっとった「新改訂標準版」(New Revised Standard Version, NRSV)の『聖書』が出版されました。

51lk5bZJW9L__SX258_BO1,204,203,200_


さらにその五年後、この「新改訂標準版」を出発点としつつもNCC とは独立したV.R. ゴールド氏らのプロジェクトによる 「Inclusive Bible」(包括訳聖書)が1995 年に出版されました。


41Q1QSNY9TL__SX343_BO1,204,203,200_
(The New Testament and Psalms. An Inclusive Version, Oxford University Press, 1995 *この聖書に関する検証記事は、hereをご参照ください。)


四年後の1999年には、この聖書の邦訳版が株式会社DHCから出版されました。

51FGERGT84L__SX339_BO1,204,203,200_
(上沢伸子ほか訳。1989年の New Revised Standard Version(NRSV)をさらに改訳した1995年の The New Testament and Psalms An Inclusive Version の対照訳。神を表すのに男性代名詞を使わない、神の言い換えに「父」ではなく「父母」を用いるなど、徹底して包括語を用い、差別表現を回避した新しい翻訳。荒井献と木田献一が巻末に「付論聖書のなかの差別表現」を寄稿。―以上、アマゾンより)


この『聖書から差別表現をなくす試行版 新約聖書・詩編(英語・日本語)』の序文には、次のような事が書かれています。

わたしたちは、性別、人種、身体能力、その他の事柄に対して、明確な表現を心がけて聖書を英訳しながら、聖書の原典の特別版、つまり包括訳作りを目指しています。

本書では男女どちらの性に偏ったことばのうち、特定の歴史的人物を示さないものはどれも、説明的なことばや別の訳語などで、言いかえたり、言いたしたりしてきました。

*筆者注:それに続く、「また、人種や肌の色や宗教に対する軽蔑的なことばも、身体的な障害だけで人を判断するようなことばもすべて、包括的な表現で同様に言いかえています。」という文章からも分かるように、これらの編纂に関わった方々の意図は、あくまで「差別の撤廃」であり、神を冒涜しようという気持ちでなさったものでないことは明らかです。そのことは理解できます。しかし、そうは言っても、やはり改ざんは改ざんです。そして、――たとえ善意と正義感から来る――「書き換え」作業であったとしても、その行為により、私たちはまず誰よりも神ご自身を「差別」する者になってしまうのではないでしょうか。そして神ご自身の「権利」を蹂躙する者になってしまうのではないでしょうか。) 



包括訳の編纂に関わっておられるバートン・H・スロックモートン氏は、自分たちのこういった試行が聖書のメッセージ自体を変えるものであることを認めておられます。

「聖書の言語、および聖書的信仰における家父長主義」について、バートン氏は「そういった家父長制的前提というのは、、聖書全体に浸透しているものです」と認めつつも、対等主義的な立場の読者に受け入れられやすいように、「翻訳の過程で家父長主義(を反映しているような箇所)を削除しました。」と告白しておられます。(Burton H. Throckmorton, Jr., “Why the Inclusive Language Lectionary?” Christian Century, August 1-8, 1984, p. 742 参照


spurgeon.jpg
(子ども時代、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と教わった。でも今、――新しい神学によれば――「のおもな目的は、人間の栄光をあらわし、永遠に人間を喜ぶことにあるのだ」という。しかしこれはまるで倒錯した物の考え方である。―チャールズ・スポルジョン)


おわりに


「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2b)

神のことばにおののく(trembleth at my word)――。

今ほど、神の前にへりくだる、謙遜な心が求められている時代はないように思います。

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」神の霊に満たされ、預言者イザヤは叫びました(イザヤ1:2a)。


IMG_0247.jpg


私たちはこの偉大な主の前に跪こうではありませんか。崇敬の念に満たされ、このお方の発する御言葉を、真に畏れをもって聞こうではありませんか。

――聖書の改ざん作業という――人間のおそろしい高慢の業を食い止めることができるのは、神の御力と、そして主の霊に満たされ低くされた神のしもべたちの心、そしてそこから生み出される信仰だと思います。

私たちは皆それぞれが、今置かれた場で、「ウィリアム・ティンダル」とされています。

御言葉のために命をかけたティンダルのような不屈の精神を持ち、私たちはそれぞれの場で、御言葉の「見張り人」とならなければならないと思います。

土砂崩れはもう始まっています。今が立ち上がる時です。



そのとき、
主を恐れる者たちが、互いに語り合った。
主は耳を傾けて、これを聞かれた。
主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、
主の前で、記憶の書がしるされた。
マラキ3:16











スポンサーサイト

汝の導かれるところへ―エミー・カーマイケルの詩

ねじられ、よじられ、痛めつけられる神の御言葉―包括訳(gender-inclusive)聖書とフェミニズム

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。