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(Mary A Kassian, 10 reasons why the new NIV is bad for women, 出典:ココ


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*メアリー・カスィアン女史は、南バプテスト神学大学で教鞭をとっておられる方です。この記事は、カスィアン姉が女性のみなさんを応援する目的で書かれたメッセージです。




今年の初めに(2011年)、NIVの包括訳バージョンが刊行されました。

この新版は、聖書の中の男性ジェンダー用語に対して何千という変更を加えています。

包括訳聖書を持っているのは、今時「最先端をいく」「クール」なクリスチャンとしてのトレンド・マークといった感があります。でも誤解しないでください。私は最先端が悪いといっているわけじゃないんです。私だって新しいもの好きです。

でもこと包括訳聖書に関して言うなら、この聖書が教理の点で正確さに欠いているという点で私は憂いています。

言葉を変にいじくり回すなら、意味も変にいじくり回されてしまいます。

真摯な聖書学者の方々は、なぜNIV(新国際訳2011)や、NRSV(新改訂標準訳)や、CEB(共通英語聖書)などに重大な欠陥があるかということを説明しておられます。こういった方々の論稿を読んでみたい方は、Gender Neutral Bible Articlesをチェックしてください。

また、教理的な面での不正確さ、そして露骨な政治的アジェンダというこの二点以外にも、私がこういった包括訳聖書を受け入れることができない理由があります。

もちろん、出版社側は善意でこれを刊行され、純粋に、「これが女性たちの助けになれば」と思ってくださっているに違いありません。

でも私の目から見れば、包括訳聖書というのは、(女性たちの助けになるどころか)実際はその逆に、女性にとって「害」になるものです。

ええ、私はこの点を強調したいです。本当にこれは私たち女性にとって「害」になるものなのです!

以下、私は自分がどうしてそのように考えているのか10の理由を書き綴っていきます。


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1.包括訳聖書は、ジェンダーという深遠なシンボリズムをぼかし、不明瞭にしています


ジェンダーには深遠で、宇宙的な意味があります。

神様は男性像(manhood)、女性像(womanhood)、結婚、性などを創造することにより、キリストと教会との間にある愛をご表示されたのです。

ですから、私たちが聖書に書かれてあるジェンダー用語を勝手にいじることで、ジェンダーのシンボリズムが不明瞭にされてしまいます。

その結果、神について、そして福音についての真理理解が、より困難なものになっていきます。



2.包括訳は、ジェンダー自体を――それが本来指し示すもの以上に――賞揚しています


聖書のジェンダー用語を変えるという行為は、すなわち、「そういった用語が私たち(人間)に関わるものである」という主張を内に秘めています。

しかし、そうではありません。聖書というのは、究極的には、男性や女性のことを言っているのではありません――それは、人の子であり神の子であるイエスについて言及している書なのです

そうです、聖書は、男性たちを賞揚しようという目的で男性ジェンダー用語を多く用いている訳ではなく、それは「かの御方」(THE Man)――主の花嫁を贖うために究極の代価を払ってくださった唯一無二の御方――を賞揚し、高めるために用いているのです。



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3.包括訳により、女性像(womanhood)というたぐいなき美しさが損なわれています。


聖書のジェンダー用語をぼかすことで、ジェンダーの区別が曖昧にされます。

その結果、女性像というかけがえのない役割や美しさが損なわれ、その価値がおとしめられています。



4.包括訳はかえって女性を排除する結果になってしまっています


ジェンダー包括訳聖書は、女性を「集合的全体の一部」として内包するのではなく、かえって女性たちを〈他者〉として締め出してしまっています。

神は集合的に男性と女性を「アダム」(ヘブライ語 ‘adam、創5:2参照)と名付けられました。

それは何を意味するのでしょう。そうです、その事により、「男性も女性も共に同じ状態にある。そして、それに対し、主は共通の答えを備えておられる」ということを示唆しているのです。



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男性も女性も共に「アダム」(‘adam)であるゆえに、両者共に、最初の人アダムによって等しく代表(represented)されています。

そして罪により、両者共に堕落し、救い主を必要としています。

福音のすばらしい知らせは何かを言いますと、その両者共、第二の人――つまり最後のアダムである――イエス・キリストによって等しく代表されているのです。

神が男性と女性をアダム(‘adam)と名付けられた時、神にはすでに「最後のアダム」のことが念頭にあったのです。

ですから、現代人の機嫌を損ねまいと、この「アダム」という箇所を――私たち流の考えで「包括的」と思える何か他の用語で置き換える時、神学的な意味は損なわれ、結局、私たちは女性を排除してしまうことになるのです。

もし女性がここではっきりと「アダム」とみなされていないのなら、一体どうして私たちは、「最初の人アダム」によって代表され得ましょう?

いえ、それだけではありません。一体どうして第二の人であり、最後のアダムであるイエス・キリストによって、私たち女性は代表され得るというのでしょう?

ジェンダー包括訳聖書は、「女性にやさしい訳」、つまり女性をより包括している聖書であるとされています。

しかし逆説的なことに、神学的に全く逆のことがなされています。そうです。この訳は集合的全体から、女性を排除してしまっているのです。



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5.包括訳は女性を貶めています


ジェンダー包括訳聖書は、結局のところ、「女性というのは本来、頭が鈍く――聖書の中で「男」とか「兄弟たち」と書かれている箇所が包括的用語であるということさえ機敏に悟ることができないほど――私たち女性は愚鈍な存在である」ということを暗示してしまっています。

だから男性の聖書翻訳者の先生方は、そんな愚かな私たち女性のために言葉を置き換えたり、いろいろ努力しなければならない、、

率直に申し上げます。私はこのような聖書訳から、女性の知性に対する軽蔑心を感じています。



(2)につづきます。






ジェンダー〈包括訳〉聖書が私たち女性にとって有害である10の理由(その2)

主よ、汝の御声に耳を傾けることを教えてください―A・W・トーザーの祈り