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二週間ほど前、「写真とキーワードでたどるイマージング・チャーチ・ムーブメント」という記事 の中で、私は次のようなことを書きました。

こういった瞑想的祈り(contemplative prayer)およびセンターリングの祈りは、現在、イマージング・チャーチおよびニューエイジ系のグループで奨励されています。

*こういった祈りはヨガやヒンドゥー教のマントラ等と出所を同じくするものです。センターリングや呼吸法などにより思考を停止し、脳内をアルファ波の状態で満たすという「瞑想の祈り」は非聖書的であり、とても危険です。ニューエイジャーたちはこういった方法で悪霊と交わっているのです。



しかしその後、私の中にまた新たな問いが生まれてきました。

「こういう静思的な祈りというのは全てが全て『非聖書的』なのだろうか?Contemplative Prayer=イマージング系≒ニューエイジ=危険と決めつけ、全てに対して拒否反応してしまっていいのだろうか?」

このような問いが生まれた背景には二つの理由があります。

一つ目は、極端な反動化に対する私なりの警戒心です。

ジョン・マッカーサー師のインタビュー記事のコメント欄を読んでくださった方はお分かりだと思いますが、マッカーサー師は、現代カリスマ運動の問題点を指摘し、その急先鋒たちに対し論駁を加えていく過程で、ご自身、その反対の極に行かれ、ついに「終焉説 Cessationism」という過激な説を唱えるようになってしまわれました。

これほどの立派な聖書教師でさえも、ある部分において極端化を逃れ得ないのだとしたら、私など、いったいどうやって「バランスの取れた」聖書的立場を保持し続けていくことができるのだろう―、そう思うと、とても心もとない気持ちになってしまいました。

詩編の祈り、「どうかあなたのしもべを捜し求めてください Seek thy servant」(119:176b)をこれからも祈っていきたいです。

私が自分の意図に反し「滅びる羊のように迷い出」てしまった時にも(119:176a)、主がその哀れな羊である私を捜し求め、義の道に引き戻してくださいますように。

そしてその祈りを、イマージング運動等の問題点を指摘していく過程においても常に忘れず心に刻んでいたいです。


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また上のような問いが生まれた二つ目の理由は、私自身の魂の飢え渇きによるものです。

私は今の自分の祈りの生活に満足していません。「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」(詩編42:2a)

私の側からは、「祈りの中でもっと主と深く、長時間にわたって交わりたい」という願いがあり、また主ご自身の側からも「もっとわたしに近づいてきなさい」と求めておられることを最近よく感じるのです。

ですから私の関心は、いかにしてそれが可能となるのか。いかにしてより深い祈りの生活に入っていくことができるのかという点にあり、そこには当然、神の前に静まる「静思の祈り」「黙想の祈り」といったものも含まれているわけです。

しかしこういった領域には(イマージング運動の例からも分かるように)細心の注意が必要だということも自覚しています。

そこで先日、私はsermonindex.comのグレッグ・ゴードン師にその点について相談してみることにしました。

以下が私の質問文です。

ゴードン先生、このcontemplative prayerについて質問があります。

最近、私はイマージング・チャーチ運動およびその問題点についてリサーチしているのですが、この運動のリーダーの中にはcontemplative prayerを強く勧めておられる方もかなりいます。

しかし私の調べてみた限り、彼らの多くはニューエイジに近い異教的な瞑想の祈りを推薦しており、それは霊的にとても危険だと私は思っています。

先生は、黙想の祈りについても多く書かれていますので、ぜひお訊きしたいのです。何がクリスチャンの「黙想の祈り」で、何がそうではないのでしょうか。この点について私の理解を助けてくださいませんか。



それに対して、ゴードン師は次のような回答を寄せてくださいました。

あなたの考えを聞かせてくださりありがとう。私共も、こういった現代作家たちの定義するcontemplative prayerについて、大部分、彼らに同意していません。

福音主義クリスチャンの多くは、神に話しかけることにおいても非常にせっかちであり、心を落ち着けて神に耳を傾けるという態度にも欠けているように見受けます。

ヤコブは「聞くには早く、語るには遅くしなさい」(ヤコブ1:19a)と私たちに語っています。

私たちが主との祈りの時に入っていく前に、沈黙のうちに心と思いを整え静めることも、一つの知恵だと考えます。

しかしそれは(イマージングの人々の主張するような)思考を停止するような行為ではなく、神についての真理、もしくは主のご性質に深く想いを巡らすためのものです


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ジョージ・ミュラー、ギヨーム夫人等、過去に生きた多くの信仰者たちは、「聖句を非常にゆっくりと、注意深く読む」という習慣を持っていました。

こういった信仰者たちは、聖句一つもしくは数行を入念に読むと同時にそれを神に向けた「祈り」としていました。

そして主の臨在の中でこれらの聖句を非常にゆっくりと味わいつつ、それについて黙想していたのです。

何かとせわしくなりがちな私たちですが、こういった方法により、私たちは自分たちの性急さを離れ、祈る時に、本当に神のご臨在の中に入っていくことができる――、その意味で、こういった方法はそれを助ける一つの手立てとなるでしょう。

A・W・トーザーはこの点について「祈れるまで祈り込む(Praying till we PRAY) 」という大変すぐれた記事を書いておられます。

この回答があなたの助けになることを祈りつつ。



次につづく記事では、この道しるべをたよりに、私が辿っていった祈りの旅路をお分かち合いできたらと思います。







祈りを深めるために(2)―ジョージ・ミュラーから学ぶ

ジェンダー〈包括訳〉聖書が私たち女性にとって有害である10の理由(その2)