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夢にもなお 天(あめ)を望み、主よ みもとに近づかん


先日、私はアクロポリスの丘の麓に行き、そこで聖書を読んだり祈ったりする時間を持ちました。

この麓には哲人ソクラテスがいた牢屋の遺跡があり、その周辺はいつも静かで、何かを考えたり祈ったりするに、とてもふさわしい場所です。

ヘブル8章1-2節を読み、「天におられる大能者の御座の右に着座された方である大祭司」「真実の幕屋である聖所で仕えておられる方 a minister of the sanctuary」であられるイエス様のことを想っていた時に、(広々とした野外にいたということもあるのでしょうが)、「ああ、両手をかかげて祈りたい」という思いが内側から湧き上がってきました。

しかし次の瞬間、「でも1テモテ2章8節には、『男は、、、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい』と書いてある。ということは、姉妹が手を上げて祈るのはあんまりふさわしくないのかな?」という疑問が湧き、結局、上げかけた手をひっこめてしまいました。

でもカタコンベのフレスコ画などを見ると、祈りのベールを着けたクリスチャン女性が両手を上げて祈っています。つまり初代クリスチャンの姉妹の中には両手を上げて祈っていた人もいたようなのです。


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ローマのカタコンベの壁画


そこで私はまたグレッグ・ゴードン師に質問し、「姉妹である私が両手を上げて祈ることはふさわしい事でしょうか」と訊いてみることにしました。

すると師から回答があって、そこには次のように書いてありました。

あなたの言われるように、初代教会では兄弟姉妹共に、両手を上げ祈っていたことを示すフレスコ画が残っています。もっとも、この慣習は、教会のリーダーシップに恭順し、「秩序」をもってなされるのが望ましいでしょう。私は個人的に、両手を上げて祈ることは、男女共に許された祈り方であると考えています。



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「教会のリーダーシップに恭順し、秩序をもってなされるのがふさわしい」という賢明なアドバイスと共に、このような祈り方が私たち姉妹にも許されているようだということを知り、私はうれしくなりました。

そして今度丘に登った時には、その時には、迷うことなく両手を上げて祈ろうと思いました。

以下は、このテーマに関してゴードン師がお書きになった「祈り方」に関する記事です。


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Greg Gordon, Praying with Confidence Before God (出典ここ


神の御前で確信に満ちて祈る


ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。1テモテ2:8




頭を垂れ、手を組んで祈る。これは私たちの多くにとってきわめて当たり前の行為であり、幼い頃から教えられてきたことです。

現代の福音主義教会で教えられてきたこの祈り方以外に一体どんな祈り方があるのだろう――あなたは今いぶかしく思っておられるかもしれません。

驚かれるかもしれませんが、初代教会のクリスチャンたちには、「両手を上げ、天を見上げながら祈る」という慣習があったのです。

冒頭の聖句(1テモテ2:8)「きよい手をあげて」もそれを明確に証しするものです。

ローマのクレメンスは言いました。「私たちも頭を上げ、両手を天に掲げます。」

またテルトゥリアヌスはこう言いました。「私たちは目を天に向け、両手を掲げます。」

初代クリスチャンの描いた壁画をみても、天に両手をかかげている聖徒が描かれており、その事実を裏付けています。また福音書の中においても、イエスが祈られる時に「目を天に向けた」という記述がなされています(ヨハネ17:1、11:41)。

またそれは旧約時代の神の民の慣習でもありました。(出17:11、ネヘミヤ8:6、詩28:2、申32:40)

ある若いクリスチャンの方が祈りについて一度私に尋ねてこられました。

「祈る時に目を開けるのは間違っていますか?」とこの方は尋ねました。

私はしばらく考えた後、次のように答えました。「いいえ、間違っているとは思いません。」

私としては、〈目を閉じた方が望ましいのでは〉と思いつつも、この青年を励まそうと、「目を開けて祈ることであなたがより深く神様のことを考え、祈りに集中できるのなら、かまわないと思います。」と言ったのです。

私自身も、これまでの人生で何度となく、夜空に輝く星を見上げながら、神に祈ったことがあります。そしてそれは実にリアルで感動を伴う経験でした。

テルトゥリアヌスもまた、なぜ(初代教会に)このような祈りの習慣があったのか一つのヒントを与えてくれています。「なぜなら、私たちは罪ゆるされ潔白とされているからです。私たちは頭を覆いません。なぜなら(罪の赦しにより)もはや恥じることがないからです。」

この言葉を読んだ時、ヘブル人への手紙のあのすばらしい聖句を想わずにはいられませんでした。

大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(新改訳)」(「はばかることなく」(口語訳)、「確信をもって」(岩波訳))

キリストの贖いにより、私たちは天の御父の元に近づく自由と許しをいただいているのです。

次にあなたが祈りの中で主にまみえる時、両手をかかげ、贖われたあなたの頭を天に向け、大胆に主に語りかけてみてください。

このお方はあなたを愛し、あなたのために肉体の御苦しみを受け、死んでくださったのです。










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キリスト、その栄光は天を満たしています―チャールズ・ウェスレーの信仰詩

それについて祈ってはみたんだけど、、(でも祈りのベールを始める確信がない)

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