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福音主義教会の先生方、このブログをわざわざ訪問してくださりありがとうございます。

私はこの嘆願レターを先生方(→その中でも特に、私と同じ相補主義の立場にたつ方々)に向けて書いております。

(*以前に私は、「相補主義と対等主義――福音主義教会を二分する二つの視点 【ジェンダー問題】」という記事を書きました。もしよろしければご参照ください。)

今朝、私は、Gospel Coalitionという保守福音派圏で非常に影響力をもつサイトの中に掲載されていた論稿 Should Women Wear Head Coverings?(ベンジャミン・L・メルケル「女性は被り物をすべきか?」を読みました。

そしてそれを読んで、とても悲しくなってしまったのです。

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以前、このブログでも掲載いたしました「相補主義クリスチャンの方々への公開レター」という論稿でも言及されていました通り、現在、欧米圏の相補主義の先生方の間で、被り物に関する議論が白熱しています。

ガーディナー師はこの記事の中で、次のようなことをおっしゃっています。

「私たち相補主義のキリスト者は、女性牧師が非聖書的であることを述べる際に、1テモテ2章の普遍的「創造の秩序」にその論拠を求めます。しかしながら、パウロが同じ路線で議論している1コリント11章の被り物の章になると、多くの相補主義の方々はなぜか一転して「文化的解釈」をし、明らかな自己矛盾を起こしてしまっています」と。

実際に、このポイントは現在、相補主義クリスチャンの「泣き所」になっていると思います。

というのも、フェミニスト神学者や対等主義者の側から、この矛盾点について鋭い的を射た批判がなされているからです。

冒頭に挙げました相補主義の先生、ベンジャミン・メルケル師は、この「自己矛盾」から逃げずに、それを光の下にさらし、真剣に取り組もうとされています。そのことに対して、私はとても感謝しています。

しかしながら、メルケル師は、この矛盾の解決を、――「被り物の回復」という――筋の通った結論に持っていく代わりに、次に挙げるような不自然な解釈により、事をさらに迷宮化させてしまった感があります。

この原則(例えば被り物)に対する適用についてですが、これは文化の変遷と共に、変わり得るものであり、また変わっていくものです。

それとは対照的に、1テモテ2章の「創造」をベースにした議論は、パウロの命令(「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。」)に「直接的に」適用されるのです。それゆえ、この箇所は文化的に規定されてはいません。

Benjamin L.Merkle, Should Women Wear Head Coverings? (here) *またこれに対する詳しい反証記事は、ココをご参照ください。



これを読んで私は思いました。

〈もし、私がフェミニストだったら、こういう説明をされて、「おお、この方は何と苦しまぎれな議論をしていることだろう!〉とますます相補主義「不信」に陥るだろうな〉と。

残念なことに、このような不自然で一貫性のない解釈により、相補主義の自己矛盾は解決されるどころか、その反対に、それはさらに悪化し、ただでさえ痛い「泣き所」がさらに赤くミミズ腫れしてしまった感があります。どうでしょうか。

その意味で、クリスチャン・フェミニストのレイチェル・エヴァンスの次の批判は的を射ていると思います。

「エペソにいる女性たちに関するパウロの教示は普遍的に拘束力がある。なぜなら、彼はこの主張をする上でその理由を創造の秩序に訴えているからだ」と言っている人たちは、次のことを実践した時はじめて、その立場において一貫性があるといえます。

――つまり、彼らが自分の教会にいる女性たちに対しかぶり物を着用するよう要求するなら、です。というのも、上記の点を推奨する上で、パウロはまさにこれと同じ線上の議論を展開しているからです。(Ⅰコリント11章を参照)




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アーサー・スィドー氏は、「自分たち相補主義の教職がなぜこのような自己矛盾した態度を取っているのか」ということを分析し次のように言っておられました。

「一方において、家庭や教会で、相補主義的なジェンダーの役割がなされるべきことを説きつつも、他方においては、『女性は被り物をすべきです』と言うことによって、福音派の女性たちの気分を損ねることに対して恐れを抱いているからです。」 Swing And A Miss here



この方の分析が当たっているのかどうかは分かりません。

ただ一つ言えるのは、いずれにしても、「祈りのベール」をめぐる問題は、もはや避けて通ることのできない、相補主義の「試金石」の一つになってきているということだと思います。



日本各地にいる「ベールの姉妹」の気持ちを代弁して


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先生、どうか聞いてください。今、日本には1コリント11章のみ言葉を真剣に受け止め、祈りのベールを実践したいと願っている姉妹たちが各地にいます。

でも、現在、日本には、そういう姉妹たちを公に擁護してくださる先生がほとんど誰もいらっしゃらないので、彼女たちはもがき、葛藤しています。

昨日、私は記事の中で「目立たない黒色のモダン・ベール」を彼女たちに紹介しました。

「でも、、」と私は心の中で思いました。「もしもどなたか相補主義の先生が立ち上がってくださり、『姉妹のみなさん、被り物をするのは聖書的です。それは今日も尊守されるべき主の掟です』と講壇から言ってくださったら、私たちはどんなに勇気づけられることでしょう!」

もし、先生が教会で一言そうおっしゃってくださったら、私たちはもう黒ベールであろうが、白ベールであろうが、そういう事に神経を使うこともなく、ビクビクすることもなく、自由に喜んでこの尊い主の掟に従っていくことができます。

ある相補主義の男性の方が、「今の風潮にあって、あえて被り物の教えを擁護していこうとする我々男性には、(バッシング防御用の)『保護用ヘルメット』が必要です」と痛々しい冗談を言っておられました。

実際、それは険しい道なのだろうと察します。

でも先生が立ち上がってくださることにより、日本全国、多くの姉妹が勇気づけられます。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

先生、どうか主の栄光のため、そして私たち姉妹のために立ち上がってください。そして私たちを助けてください。


預言者たちは流れ――たいていの場合、ほとばしる激流――の真ん中に岩のように立ちました。激流が彼らの上ではじけました。彼らはその潮流に挑み、抵抗しました。その流れの真ん中に彼らがいることが、優勢な激流に反対する神の御心を表していたのです。

    オースティン・スパークス「預言の務め」より



このレターを読んでくださり、ありがとうございました。










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