無題


神へのあこがれ
The Pursuit of God




第一章 神を切に追い求めて
I. Following Hard after God



わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。詩編63:8 

My soul followeth hard after thee: thy right hand upholdeth me. Psalm 63:8




キリスト教神学は、「先行する恵み」という教理を奉じています。――人が神を求め得る前に、神の方でまずこの人間を追い求めていたという教えです。

罪深い人間が正しく神のことを認識する以前に、この人の内で、なにがしかの「照らし」の業がなされていなければならない。――それは不完全ではあるかもしれないけれど、いずれにしてもまことの働きです。

そしてそれに引き続いて、あらゆる人間側からの求め、渇望、そして祈りが起こされるというのです。



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私たちが神を求めるのは、神がまず私たちのうちに、ご自身を求めるよう強い願いを起こさせてくださるからです。

「わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、誰もわたしのところに来ることはできません」と主は仰せられました。

そしてまさにこの「先行する神の引き寄せ」ゆえに、主は、――人が神を追い求め、神の元に行くというその行為についての功績――をことごとく取り去ってしまわれます。

神を求める強い願望は、神より生ずるものですが、その願いを完遂していく過程においては、そこに我々人間の、神を追い求める行為があるわけです。

そして私たちが神を追い求める間中ずっと、私たちはすでに主の御手の中に入れられているのです。「あなたの右の手はわたしをささえられる。」



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そしてこの神聖な「(神よりの)支え」と「(人間の)追い求め」の間には、何ら矛盾がありません。全ては神より出ており、ヴォン・ヒューゲルの言うように、神は常に「先行する方(previous)」だからです。

しかし実際には(つまり、神の先行する働きが、人間の現在の応答と交わる場において、という意味で)人は神を追い求めなければならないのです。

私たちの側として考えてみると、もしこの、神の秘かな引き寄せというものが、結果的に聖なる方を経験するという事を生じさせるのだとしたら、そこには肯定的な「相互性(reciprocation)」があるわけです。

こういった事をあたたかく私的な感情を込め、詩編42篇は次のように記しています。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」

これは「淵が淵を呼び起こす」ものであり、神を切に求めている心にはこれが理解できます。



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信仰義認の教え――これはれっきとした聖書的真理であり、不毛な律法主義やむなしい自己救済からの喜ばしい救いです――は、残念なことに現在、悪い者たちの手中に陥り、多くの人はこれを「神を知る知識を求めてはいけないという意味なのだ」とさえ解釈してしまっている有様です。

その結果、回心の行程は、機械的なもの、そして命のないものへと変貌していきました。

信仰は今や、倫理生活なしに、そして古いアダムのエゴに対する羞恥心なしに、表明されるようになりました。

キリストは――受け入れる側の魂の中に主に対する特別な愛を生じさせることなしに――「受け入れられて」います。

ある人が「救われた」と言っても、その人の内には神に対する飢え渇きがありません。いや、むしろ、こういった人々は、「そのままの状態で満足しなさい」「(そのわずかなもので)満ち足りることが大切」とはっきり教え込まれているのです。



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現代の科学者が――神の創造された世界の神秘のただ中に置かれていながらも、神を見失ってしまったのなら――、私たちクリスチャンは、神の御言葉という神秘のただ中に置かれていながらも神を見失いつつある、という切迫した危険にあると言えましょう。

神は人格をもったパーソンであり、それ故、人間の場合と同様、(関係において)育み育まれる存在だということを、私たちはほとんど忘れ去ってしまっています。

「他の人格を知ることができる」という属性は、元々人格に内在するものですが、一つの人格が他の人格を完全に知るようになるのは、ただ一回の出会いと交わりによってはなされ得ません。

それはむしろ、長期的で、かつ愛情に満ちた精神的交流を通し、互いの内に内在する可能性がくまなく見つけ出されていくものなのです。


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社会的な人間関係はすべて、人格の人格に対する応答によって成り立っています。そしてそれは、もっとも軽い、うわべだけの接触というレベルから、人間の魂がなしうる最も完全にして親密な交わりというレベルまで実にさまざまです。

宗教というのは、それが純粋なものである限り、その本質において、「創造された人格の、創造する御人格(=神)に対する応答」ということができます。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)





(2)につづきます。〔私訳〕








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