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(A・W・トーザー 1897-1963)


『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』


第一章 神を切に追い求めて



(前回のつづき)


神はパーソンであり、主はその力強いご性質の深みにおいて、人間と同じように、考え、意思し、楽しみ、感じ、愛し、願い、苦しまれます。

そしてご自身を私たちに知らしめる過程において、主は私たちになじみのある人格の型として存在されます。

そして、私たちの思考、意志、感情といった媒介物を通して意思疎通を図ってくださいます。

――神と、贖われた人間の魂との間に存在する、絶え間ない、流れるような愛と精神の交わり――は、新約聖書の宗教の、心うち震えるような真髄です。


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神と魂との間におけるこの交わりは、自覚することのできる個人的認識(personal awareness)の下に、私たちに知られうるものです。

それは個人的です。――つまりそれは、信者たちの群れ(the body of believers)を通してではなく、あくまで個々人に、そしてからだを構成する個々人を通して知られうるものです。

そしてまたこれは自覚(意識)することのできるものです。つまり、それは意識の域を下回るものではなく、魂の知らないところで働くものでもないのです。(例えば、幼児洗礼のことをそのように考えている人がいます。)

しかし真実はそうではなく、それは私たちの意識できる領域内に来るものであり、そこで人は――経験による諸事実を知るのと同様――それを「知る」ことができるのです。


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神が大規模だとすると、あなたや私は(罪を除き)その小規模版です。

神のかたちに造られた私たちは、自らのうちに主を知ることのできる能力を備えています。しかし罪ゆえに、私たちにはその力がありません。

新生により御霊が私たちにいのちを吹き込まれるや、私たちの全存在が神に対する親しさを感じ、喜びに満ちたその認識の中で、神を歓喜するようになります。

それがいわゆる天的な誕生であり、それなしには私たちは神の国を見ることができません。

しかしそれは終焉ではなく、始まりにすぎないのです。というのも、いよいよここから、栄光ある「神への求め」、神の無限の豊かさを求める心の幸いな探求が始まるからです。

それを持って始まると私は言いましたが、未だそれを極めたことのある人はいません。なぜなら、深遠にして神秘に満ちた三位一体の神の深さの中には制限も終わりもないからです。



果てしのない海原 誰が汝を測ることなどできようか
汝の永遠は 汝を取り囲む
おお 偉大な神よ!




神を見い出したにも関わらず、依然として神を追い求め続ける―。これは魂のなす愛の逆説であり――いとも容易に満足し切ってしまう宗教家にはあざ笑われるかもしれませんが、火のような熱意を持って神を慕い求める魂にとっては、自らの幸いな経験において正当化されるものです。

聖ベルナールはこの神聖な逆説を次のような四行詩で言い表しましたが、これは神を慕ってやまない魂にとっては瞬時に理解され得るところのものでしょう。



われらは汝を味わい喜んでいます。おお 生けるパンよ。
そして尚も汝を味わおうと切望しています。

われらは汝を飲んでいます。おお すべての源泉よ。
そしてわれらが魂を満たそうと、今なお汝を渇き求めているのです。





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過去に生きた敬虔な男女をよく見てください。彼らがどんなに神に対し燃えるような情熱を持っていたかに気づくはずです。

彼らは主を想って嘆きました。昼と言わず夜と言わず、そして時期が良かろうが悪かろうが、とにかく彼らは主に祈り、祈りの中で主と争い、そして主を探し求めました。

そうした後についに主を探しだした彼らの甘美な喜びは言い尽くせぬものでした。

事実モーセは、「主をさらに知りたい」という主張をもって、自分が「神を知っている」という事実を示したのです。

「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。」

そしてここから起ちて彼はさらに大胆な嘆願をしました。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

神はモーセのこうした情熱を率直に喜ばれ、翌日にはモーセをシナイ山に呼び、そこで荘厳な一連の出来事を通し、彼の前にご自身の栄光が通り過ぎるのをお許しになりました。

ダビデの人生は霊的渇望のほとばしりであったと言っても過言ではなく、彼の書いた詩篇には神を求める者の叫びと、神を見い出した者の歓喜の叫びが鳴り響いています。

パウロは、自分の人生を突き動かしているものは、キリストを求める燃える情熱に他ならないと告白しました。「キリストを知り That I may know Him」というのが彼の心の目的であり、そのためにパウロは全てを犠牲にしたのです。

「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためである。」


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讃美歌は神を慕い求める者にかぐわしく、歌う者は賛美の中で神を求めつつも、自分が神をすでに見いだしたことをも同時に知っているのです。

「♪主の足跡を見いだし、私をそれを追い求める。」これは、ほんの一世代前まで先人によって歌われていた賛美の一節ですが、今ではどの教会でもほとんど歌われていません。

この暗い時代に生きる私たちが、「神への求め」という営みを自分たちの教師たちに任せっきりにしているとは、何という悲劇でしょう。

今、全てはただキリストを「受け入れる」という最初の行為のみに焦点が当てられ(ちなみに、キリストを「受け入れる」というこの表現は聖書のどこにも存在しません。)、その後、魂がさらなる神の啓示を求めることは何ら期待されていない――残念ながら、これが目下の現状です。


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「一度主を見い出したのなら、もはや主を求める必要はない」という誤った論理が私たちの間でまかり通っています。

そしてこういった論理は正統派信仰の「決定版」としてのお墨付きをもらい、その結果、聖書信仰のクリスチャンは、これ以外の信じ方をしてはならないのだ、と思い込んでしまっています。

それゆえ、このテーマに関し、これまで礼拝し、追い求め、賛美してきた過去の教会の証しは、もろともにうち棄てられてきました。

数多くの香り高い聖徒たちの「経験に基づく心の神学」は、ひとりよがりで独善的な聖書解釈による被害を被り、拒絶されています。

――こうした聖書解釈は、もちろん、アウグスティヌスやラザフォード、ブレイナードといった聖徒にとっては奇妙なものに思えて仕方がないに違いありません。

しかしこういう陰気な状況のただ中にありながらも、そのような浅薄な論理に己を甘んじさせようとしない一握りの聖徒たちが存在しています。

彼らは現行の議論が優勢であるのを認めながらも、その後、涙のうちに、ひと気のない場所を求めて一人退き、「おお神よ、私にあなたの栄光を見せてください」と祈るのです。

そうです。彼らはこの神秘――つまり神ご自身を――味わいたい、心で触れたい、内なる目で見たいと熱望しているのです。



(3)につづきます。





『神へのあこがれ』 A・W・トーザー(第1章 その3)

『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』 A・W・トーザー(第1章 その1)