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『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』


第一章 神を切に追い求めて



(前回のつづき)



私はここでみなさんにあえて申し上げることにします。どうか熱烈に神を追い求めてください。

これなしには私たちは現在のような低い状態に陥ったままです。

私たちの信仰生活にみられる堅苦しさ、生彩のなさは、このような聖なる願望が欠けていることに起因しています。

自己満足は、あらゆる霊的成長を阻む致命的障害です。

燃えるような願望というのが私たちの内になければならず、それなしには、主の民のうちにキリストの顕現はありえません。

主は追い求められることを望んでおられます。多くの人がこれまで長い間、ひたすら主を待たせてしまっていること、これはとても残念なことです。


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各時代はそれぞれ特有の特徴を帯びています。

現在、私たちは宗教的「複雑性」ともいうべき時代に生きています。

キリストのうちにある単純性は私たちの内にほとんど見られません。

そしてそれに取って代わるかのように、そこには種々の企画、方法論、組織、――ひたすら時間とエネルギーを消耗させる盛んな活動、、といったものが溢れています。

しかし、そういったものでは、決して魂の渇望を満たすことはできないのです。

内なる経験の浅薄さ、礼拝の空虚さ、(商業的宣伝が中心のメソッドによって特徴づけられている)世への追従と模倣――こういったものは全て、私たちが今日、神をきわめて不完全にしか知っておらず、神の平安をも持していないことを雄弁に物語っています。



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こういった宗教的〈外側のもの〉が溢れる中にあって、私たちはまず主を探し求めることを堅く決意し、その後、単純にしてシンプルな道を進んでいかなくてはなりません。

昔も今も、神はご自身を「幼な子たち」に現わし、賢い者や知恵ある者には濃い暗闇のうちにお隠しになります。

私たちは主に近づく道においてもこれを単純化しなければなりません。

そして本質的なものに絞り、それ以外の余分なものは取り除くべきです。(そして実際、本質的なものとは驚くほどわずかなのです。)

私たちは人に良い印象を与え自己アピールしようとするあらゆる試みを捨て去り、打算のない子どもの率直さをもって主に向かわなければなりません。

もしそうするなら、主は即座に応答してくださるでしょう。


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キリスト教信仰においては、実際に、神ご自身の他、私たちが必要としているものはほとんどないのです。

神だけを一途に求めるのではなく、神と共に他の〈何か〉を求めるという悪習慣により、私たちは完全な啓示の中で神を見い出すことを阻まれています。

この「他の何か」というのが私たちの強敵なのです。もしこれを除くことができるのなら、私たちは時をおかずして神を見い出すでしょう。

そしてこれまでの人生において秘かにずっと願い求めてきたものをこのお方のうちに見つけるでしょう。

そしてその際に、「神だけを追い求めることで、自分の生き方が狭くされてしまうのでは、、(他者にたいして)開かれた心の動きが制限されてしまうのでは」などと恐れるには及びません。

むしろその逆が然りなのです。つまり、私たちは神をわが全てとなした上で、このお方のためにひたすら心を砕き、多くを犠牲にすることができるようになるのです。


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古い英語の古典に『知られざる雲』という本がありますが、この本の著者はそういったシンプルさを求める方法について次のように語っています。

「柔和な愛をもってあなたの心を神に向けなさい。その際、ただ神ご自身に心を向け、神の所有しておられる物には一切心を捕らわれてはなりません。そして神ご自身以外のなにかを考えることを忌み嫌いなさい。そうすればあなたの理知でも意志でもなく、ただ神ご自身が働いてくださるでしょう。これこそが最も神に喜ばれる魂の働きなのです。」

また、著者は、祈る際に、私たちがさらに全てを――自分たちの神学でさえも――脱ぎ捨てることを勧めています。

「神ご自身を求める以外のいかなる動機をも持たず、むき出しの意思をもって直接神に向かうこと――これで十分なのです。」

しかしそうであっても、この著者の思想の背景にはやはり――新約聖書の真理という――れっきとした土台が据えられています。

というのも、著者は「ご自身によって」という意味を、「あなたをお造りになり、買い取られ、そしてご慈愛をもってあなたを呼んでくださった方によって」と説明しているからです。

そして著者は単純性を追求しています。宗教を「一語のうちに包み、折り込もうと思うなら」と彼は言います。

「一音節だけの小さな語をたずさえなさい。なぜなら、一語は二語よりも良く、さらに短ければ短いほどより良く、御霊の働きと一致します。その一語とはすなわち、〈神〉ないしは〈愛〉です。」



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主なる神がイスラエルの部族の間でカナンの土地を分割なさった際、レビ族には相続地は与えられませんでした。

神はただレビ族に「わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である」とだけ仰せられました。そしてこの言葉により、レビ族を他のどの兄弟にもまさり豊かな者、かつて生存したあらゆる王、あらゆる支配者にまさり豊かな者とされたのです。

ここには霊的な原則が存在しています。そしてこの原則は、いと高き神に仕える全ての祭司に今日でも適用されるものです。

神を自分の宝として持している人は、このお方にあって全てを持っています。

他の多くの宝はこの人には与えられないかもしれませんし、与えられたとしても、それを持つ楽しみというのは加減されるため、その幸せは決してこの人にとって必要不可欠のものとはならないのです。

また仮にそういった楽しみが一つ、また一つと取り去られていったとしても、この人はほとんと喪失感を覚えないでしょう。

なぜなら、この人は全ての物のであられる方を持しているからであり、この方のうちにあって、彼はあらゆる満たし、あらゆる楽しみ、あらゆる喜びを持っているからです。

たとい彼が何を失ったとしても、彼は実質上、何をも喪失していないのです。

なぜなら、彼は今やこの方のうちにあって全てを持しており、それを純粋に、正当に、そして永遠に持っているからです。



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祈り


おお神よ、私は汝のすばらしさを味わってきました。

それは私を満足させると共に、汝に対するさらなる飢え渇きへと私を誘います。

そうです、さらなる恵みの必要性を私は切実に感じています。

私のうちには汝を求める願いが欠如しており、それを恥ずかしく思っています。

おお神、三位一体の神よ。汝を求めることをしたいのです。

切望感で満たされたい。そしてさらに飢え渇きを覚えられたらどんなにいいかと願っています。

どうか汝の栄光を見せてください。そうすれば、私は真に汝を知ることができるでしょう。

憐れみの中で、私の内に新しい愛の業を始めてください。

そして私の魂に語りかけてください。「わが愛しい者、さあ立って、出ておいで」と。

そうして――長い長い間さまよっていた――この靄(もや)の立ち込める低地を起って、汝の元へと飛翔していくことができますよう、恵みをお与えください。

イエスの御名によって。アーメン。



【第一章部分 終わり】




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