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私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。
ルカ9:57



人はキリストの弟子でありつつ、同時にフェミニストであることができるのでしょうか。

日本で最も著名なフェミニスト学者である上野千鶴子さんは、この問いに対してはっきり「否!」と答えました。

彼女はクリスチャン・ホームで育ちましたが、成人後、フェミニスト思想に出会い、キリスト者であることをやめ、棄教されました。

その一方、「ええ、その両立は可能です」と考える方もおられます。

「クリスチャン・フェミニスト」「福音主義フェミニスト」「フェミニスト神学者」と言った言葉が存在すること自体に、後者の方々の主張が表れているとみていいでしょう。

さて、このブログでもNIV(新国際訳聖書)2011年度版という「ジェンダー包括訳聖書」の抱える問題について取り上げてきました。(記事その1その2その3その4


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1984年の旧版から、2011年の新版にいたる30年弱の間に、NIVの翻訳委員会がフェミニスト神学の影響下に入ったことは既知の事実ですが、この問題が、私たち福音主義クリスチャンにとってとりわけ深刻である理由は、

1)これが現在、世界で一番よく読まれている逐語訳聖書であること、

2)それ以前に出版された包括訳聖書(例えば新改訂標準訳NRSV)があくまでリベラル派の読者を主な対象にリベラル学者によって訳されたものであるのに対し、NIVの主な読者層は、「メインストリームの保守福音派・聖霊派信者」であること

にあるのではないかと思います。

「現代人の気を悪くしないように offend modern sensitivities (NIV翻訳委員会編"Policy on Gender-Inclusive Language" C項より抜粋、1992)」という理由で、例えば男性三人称単数の"he" や"him"が"they"や "them"に置き換えられました(合計2002箇所)。

その他、father, man, brotherといった男性のジェンダーを表す語が何千か所と他の語に置き換えられました。

「NIV 2011」問題は、この世のイデオロギーであるフェミニスト思想が、今や福音主義教会の中核部分にまで及んできたということを明瞭に表していると思います。

つまり、私たち聖書信仰のクリスチャンにとって、これはもはや「対岸の火事」ではなくなってしまったのです。


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このシリーズでは、1960年代に活躍した三人の女性(メアリー・デイリー、ローズマリー・ルーサー、ヴァージニア・モレンコット)のそれぞれの霊的旅路と、その思想が彼女たちにもたらした帰結についてみなさんとご一緒にみていきたいと思います。

いずれの女性も、神を愛するクリスチャン女性として旅を始めました。

デイリーはカトリック、ルーサーはリベラル左派、モレンコットは福音派保守(ファンダメンタリズム)とそれぞれ異なる信仰の出発点を持していましたが、いずれも旅路を進める中で、徐々に、そして急速にフェミニズム思想を受け入れていきました。

☆☆

メアリー・デイリー(Mary Daly, 1928-2010)


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メアリーは、宗教フェミニズムの先駆者の一人です。

非常に頭脳明晰であり、また霊的なことに関心のあったメアリーは、若い頃から「ぜひ神学を学びたい」という夢を持っていました。

当時、女性が神学博士号を取得するというのは、前代未聞のことでした。米国では道が閉ざされましたが、彼女はあきらめず、スイスのフリブールに留学し、そこで神学および哲学を学びました。

しかし神学界でも彼女は失望を感じ続けました。既成の教会組織の中には男性優位主義が根強くある、と彼女は思いました。

1965年にローマで第二回ヴァチカン公会議がひられました。彼女はこの公会議に期待をかけていました。

「もしかしたら、この会議を契機に女性に対する教会の態度が変わるのではないか、、」と。しかしそれもまた失望に終わりました。

同年、彼女はThe Church and the Second Sex(「教会と第二の性)」という本を出版し、本格的に宗教フェミニストとしての道を歩み始めました。

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(*ちなみに、題名の「第二の性」という部分はフランスの無神論的実存主義者シモン・ボーボワールの主著『第二の性』から取られたものです。)

教えていたボストンのカトリック系大学では、この本に対し非難の声が集中しました。そういうカトリック側の反応に対し、何千人という学生が「言論の自由を!」と叫びデモ行進しました。

このような嵐の中で、メアリーは苦悶を覚え、キリスト教会および聖書の神そのものにもはや希望を感じることができなくなっていきました。

その時の心情を彼女は次のように記しています。

、、私の関心は教会の中における男女の「平等」にもはやとどまらなくなった。もうつまらない(教会)改革など、どうでもいいと感じるようになった。そしてその代わりに、私は女性の革命という新しい夢を見るようになっていった。

Mary Daly, The Church and the Second Sex, p.14




父なる神を「超えて」


五年後、メアリーはBeyond God the Father(「父なる神を超えて」)という本を出版しました。この本の中で彼女は自身がユダヤ・キリスト教的な男性神に背を向けたことを明らかにしました。

そして「女性たちは、神をBe-ingという動詞、つまり男性的実在ではなく、むしろ力やエネルギーと捉えるべきである」と説きました。

こうして彼女はフェミニストの中心課題を次のように定義しました。

人間として存在すること――それは自己に命名し、世界に命名し、そして神に命名することである。

Mary Daly, Beyond God the Father



彼女のフェミニズム思想は三冊目の著書Gyn/Ecology:The Metaethics of Radical Feminism(「ギネコロジー:ラディカル・フェミニズムのメタ倫理学」)の中でさらに発展を遂げました。


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なぜGodという語を使わなくなったかという問いに対し、彼女は「この語から男性的イメージを取り除くことは不可能だと悟ったから」と彼女は記し、次のように言いました。

Godという語が、父権制という死体愛を表しているのに対し、Goddess(女神)は、女性や自然における、生命に満ちた存在を肯定している。

Mary Daly, Gyn/Ecology



また主権は神ではなく、あくまで人間にあるということを次のように説きました。

「初めにことばがあった(ヨハネ1:1)のではない。初めに、聞くという行為があったのだ。」

「彼女、そうまさしく彼女だけが、どの位、またどんな方法で、旅路をするか(できるか)を決定することができる。彼女、そう彼女だけが、自分自身の行程の奥義を悟ることができ、他の女性たちとのつながりを発見することができるのである。」

Mary Daly, Gyn/Ecology, p. xi, xiii, 424



Pure Lust(「清い情欲」)という四冊目の本において、彼女は「情欲という伝統的〈大罪〉」のコンセプトを逆転させることを試みました。


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男性的情欲が、憎しみの強迫観念であるのに対し、「清い情欲」というのは「力強く、生命を肯定する力」であり、それは女性たちを「自然において、そして自己において野生と結び付ける」良いものである。だから、女性たちよ、全ての抑制を取り払いなさい。モラルや霊性や倫理という枷をはずしなさい。そしてユダヤ・キリスト教的父権制というシステムに反旗をひるがえしなさい。それが肉体的快楽(セクシュアリティ・同性愛)であれ、霊的経験(魔術・異教崇拝)であれ、あなたは自由にそこに没入することができます。

とメアリーは女性たちに奨励しました。(Pure Lust, p.1-3)

そして次の著作では、(キリストの)受肉を次のように定義するところまでいきました。

受肉=最高に理想化された男性の性的幻想。至高のキリスト教ドグマとして普及している。聖母マリアの神秘主義的〈超〉レイプであり、これは全ての事物を表している。つまり、全ての女性及び全ての事象への強姦に対する象徴的合法化である。」

Mary Daly, Webster's First New Intergalatic Wickedary of the English Language, p.78



こうしてフェミニスト思想は、メアリー・デイリーという女性を、完全に、そして徹底的に聖書の神に敵対する者として変えていきました。



(2)に続きます。










決して交わることのない二つの川―ある女性の旅路とその帰結【福音とフェミニズム問題】(2)

イスラム革命防衛隊員からキリストの弟子へ――ハンス兄の救いの証し(イラン)