ヴァージニア・モレンコット(1932-)


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モレンコット女史は、前述のメアリーやローズマリーとは違い、福音派の聖書信仰の背景を持った女性です。

大学も、保守福音派の大学として有名なボブ・ジョーンズ大学を選び、そこを卒業しています。


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聖書的フェミニストとしてのスタート


ヴァージニアは、Reformed Journalに論文を載せ、(女性牧師就任を含め)教会における全ての働きの戸が女性にも開かれるべきであることを訴えました。

その後1977年には、Women, Men & the Bibleという著書を記し、人間の平等に関する聖書的教えの重要性を述べました。

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ここで注目すべきは、彼女がこの時点ではまだ聖書信仰を保持していた点です。彼女はこう言っています。

聖書的フェミニズムは、主要な聖書の教え――つまり、三位一体の教理、(人間が)神のかたちに似せて造られたという創造の教理、キリストの受肉の教理、そして新生の教理――に堅く根付いていなければならないということです。(Virginia R Mollenkott, Women, Men & the Bible, 1977, p.121)




包括語への関心


英語科の教授として言語に関心のあったヴァージニアは、1970年代後半頃から、ジェンダー包括語(inclusive-language)に目を向けるようになりました。

そしてSpeech, Silence, Actionという著書を記すと、教会内における包括語の使用について積極的にキャンペーンを始めるようになりました。

また、この時期、彼女は、NCC(全米教会協議会)の『包括的用語の聖句用語集』を作る委員会に招かれ、そこでも活動するようになりました。

「ねじられ、よじられ、痛めつけられる神の御言葉―包括訳聖書とフェミニズム(その2)の中で取り上げたDHC出版の『聖書から差別表現をなくす試行版 新約聖書・詩編(英語・日本語)』のことを覚えていらっしゃいますか。彼女はこの聖書の語彙集作成にかかわっていたのです。

また1970年から78年までは、NIV(新国際訳)の文体論コンサルタントとして委員を務めました。

こうして彼女の中で、ジェンダー包括語および神のイメージについての関心はますます深まっていき、1983年には、The Divine Feminine:The Biblical Imagery of God as Female(「神聖なる女性:女性としての聖書的〈神のイメージ〉」)という本を記しました。


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そして教会における女性の解放のためには、自分の信仰を包括語で呼びならわすことが必須であると確信するようになっていきました。


神は〈彼〉〈彼女〉〈それ〉


こうして彼女の思想は次第に発展し、やがて「神もまた、包括語で言及されるべきである」と主張し始めようになりました。

、、こういう理由で、神は――人の認識できるところの――最も真正にして絶対的な〈汝〉であられる。そしてこの、絶対的関係性である〈汝〉は〈彼〉〈彼女〉〈それ〉と言及することができるかもしれない。なぜなら、この〈汝〉は全ての人、そして全ての事象に関係しているからである。(Virginia Mollenkott, The Divine Feminine



この文章を読んでもお分かりのように、フェミニズム思想へのコミットメントにより、彼女の神観は変化していきました。


私が神


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1988年、彼女はGodding:Human Responsibility and the Bible (Godding 人間の責任と聖書」)という本を記し、次のように宣言しました。

私は神の顕現。神ご自身(God Herself)!神ご自身(God Himself)!神それ自体(God Itself)!すべてを凌ぐもの。すべてを貫通するもの。そして私たちの内にある全てのもの。(p.6)



興味深いのは、フェミニズム思想が貫徹していく過程で、彼女の中で他の聖書の真理も同時に失われていったことです。

彼女は「キリストが神に至る唯一の道である」というキリスト教の主張は放棄されなければならないと説き始めました。(同書 p.46-48)

また倫理面においても、ヴァージニアは「包括性」を訴え始めます。

つまり、クリスチャンは結婚外で性的満足を求める人々を非難すべきではないし、同性愛行為を非難すべきでもないと。(*私の調べた限り、ヴァージニア女史ご自身、現在、domestic parterの女性と一緒にレズビアンとして生活されておられるようです。)

その理由を彼女は次のように言っています。

聖書は一見したところ、同性愛を非難しているようにみえますが、実際には、人口数を必要としている文化の中における、男性精子の喪失を非難しているのであり、もしくは異教的儀式、売春、搾取的情欲、ソドムの話のごとく他の男性を辱めようとする男性の性行為などを非難しているのです。

教会にいる異性愛者たちは、人間のセクシュアリティーについて学び直すべきです。そうしてこそ、彼らはゲイやレズビアンの隣人たちを非難する行為をやめるようになるでしょう。(同書 p.106)



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Virginia Mollenkott,Transgender Journeys「トランスジェンダーの旅路」 (2003, Pilgrim Press; reprinted 2010, Wipf & Stock), co-authored with Vanessa Sheridan

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Virginia Mollenkott,Sensuous Spirituality: Out from Fundamentalism「審美的な霊性:根本主義から抜け出て」(1992, rev. 2008, Pilgrim Press)


こうして、聖書信仰のクリスチャンとして出発したヴァージニア・モレンコットもまた、前述の二人の女性と同じように、聖書に啓示されている神の御言葉を否定するようになっていったのです。


おわりに


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このシリーズを通して、私たちは、メアリー・デイリー、ローズマリー・ルーサー、ヴァージニア・モレンコットという三人のクリスチャン女性の生涯と思想をみてきました。

私たちは、彼女たちをフェミニズムに向かわせた個人的背景、心の痛み、苦しみ、葛藤といったものをみました。

また彼女たちがそれぞれの状況の中で精一杯、問題に向き合おうとしてきたその勇姿もみました。私も一人の女性として、彼女たちに同情する部分が少なからずありました。

しかしながら、私の心が痛むのは、結局、「フェミニズム」というトンネルに足を踏み入れた彼女たちが、同じ終着点にたどり着いたことでした。

その終着点とは、聖書の神からの離反であり、自己を神格化するというおそろしい逸脱行為でした。

なぜでしょうか。なぜ皆、こういう帰結を迎えたのでしょうか。

それは、「イエス・キリストの福音」と「フェミニズム」が、本来、互いに全く接点を持たず、異質で、反立するもの(antithetical)だからです。

前者は神に属し上に属するものであり、後者は地に属し下に属するものです。

前者は徹頭徹尾、キリスト中心であり、それに対し、後者は人間中心です。

前者は十字架を通して人を低く、砕かれた者へと造り変えていきますが、後者は、逆に自己を高揚させ、限りなく高慢な者へと人を変えていきます。

メアリー・デイリーはフェミニストの中心課題を「人間として存在すること――それは自己に命名し、世界に命名し、そして神に命名することである」と定義しました。

ああ、それは間違っています。「私」が命名するのではないのです。それをなすことのできるのは唯一、創造主である私たちの神です。

わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所に隠された宝をあなたに与える。それは、私が主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。

ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

イザヤ45:2-3、5a、9



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天のお父様とイエス様の御名が被造物によって軽んじられず、あがめられてほしい。神よ。あなたが、天であがめられ、全世界であがめられますように(詩57:5)――私は読者のみなさんと共に今、この祈りをささげたいです。

黙示録5章に記されている、天における礼拝をもう一度お読みになってください。

この章を読むと、被造物の持ちうる最大にして至高の喜びは、私たちの思いの中心に「御座にいます方と小羊」が高く置かれ、この麗しき御方、三位一体の神に栄光が帰されることにあることが分かります。

そして私たちはこの天に属する民なのです。

今は地上の幕屋にあってうめき、重荷を負いながら、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいる状態ですが(Ⅱコリ5:2,5)、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願するところは、主に喜ばれることです(Ⅱコリ5:9)。

私たちは「清純な処女として」(Ⅱコリ11:2)キリストに対する真実と貞潔を保ちつつ、この地上での信仰の道程を全うしたいと願っています。

ですから、私たちは、どうしても地上的な「異物」、汚れたイデオロギーを受け入れることができないのです。

「イエス・キリストの福音」と「フェミニズム」――決して交わることのない二つの川が私たちの前を流れています。

私は読者のみなさんと共に、これからも妥協することなく、ただ一途に、前者の川を見、この川から流れ出るいのちの水を飲んでいこうと思います。


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(今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。詩篇113:2,4)


ーおわりー






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