祈り
この記事が、相補主義の先生方の元に届けられますように。この翻訳があなたにあって、あなたの時に実を結びますように。他の兄弟姉妹と共に、この祈りをイエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン。



被り物と聖書解釈
Head Covering and Hermeneutics (An Excerpt from “Knowing Scripture” by R.C. Sproul) here


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(R・C・スプロール師)


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原則と慣習
(PRINCIPLE AND CUSTOM)


「全ての聖句が原則であり、従ってあらゆる時代のあらゆる人々に適用されるべきものだ」と結論づけるか、もしくはその反対に、「あらゆる聖句は特定の(その土地に限られた)慣習にすぎず、その直接の歴史的文脈を超えるいかなる関連性もそこには存在しない」と結論づけるか?

あるいはこの二つ以外の結論が存在するのでしょうか?――その場合、私たちは、その差異を識別するための〈なにがしかのカテゴリー〉ないし〈基準〉を打ち立てる必要に迫られます。

☆☆

この問題を説明するために、まずは「聖句のすべては原則であり、特定の慣習を反映したものなどは皆無だ」と私たちが考えた場合にどんなことが起こるかをみてみることにしましょう。

もしそれが正しいのなら、そして聖句に従順であろうとするならば、福音宣教の手法における、ある抜本的な変化が起こされねばならないことになります。

イエスは仰せられました。「財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな」(ルカ10:4)。

もし私たちがこの聖句を、超文化的原則に当てはめて考えるなら、今後、伝道者という伝道者は皆、裸足で宣教に出かけなければならなくなります

もちろん、この聖句の要点は、裸足による福音宣教を永続的な義務とすることにあるのではありません。

しかし、その他の箇所は、それほど明瞭ではありません。例えば、洗足の儀式(ヨハネ13:3-17)については、クリスチャンの間では今でも意見が分かれています。

これは果たして、あらゆる時代の教会に課せられた永続的な掟なのでしょうか。それとも、謙遜なしもべとして仕えるという原則を表すための特定の慣習なのでしょうか。

靴を履く現代の文化の中にあっては、原則こそ残れども、慣習は消滅すると考えるべきなのか、それとも、そういった靴装にかかわらず、原則と共にやはり慣習も残るのだ、と考えるべきなのでしょうか。

こういったジレンマの複雑性をみるべく、1コリント11章にあるあの有名な「被り物」についての箇所を検証してみることにしましょう。

新改訂標準訳では、女性は預言するとき、頭にベールをかぶらなければならないと訳しています。

この掟を自分たちの文化に適用させていく上で、私たちは以下に挙げる四つの選択肢に直面することになります。


1.完全に慣習だとみなす立場

ここの聖句全体は、文化的慣習を反映したものであり、今日性はない。

ベールというのはその地方の慣習的な頭飾り(headgear)である。頭を覆わないことは、その地方においては、売春婦のしるしとしての意味を持っていた。

女性が男性に恭順することを表すしるしは、ユダヤ教の慣習であり、新約聖書の包括的教えの観点からみた場合は、これは時代遅れなものである。

私たちは異なる文化圏に住んでいるのだから、もはや女性がベールをかぶる必要はないし、(ベールに限らず)何をかぶる必要もない。さらに言えば、もはや女性が男性に対し恭順である必要もない。


2.完全に原則だとみなす立場

この場合、この聖句に包含される全てのことは、文化を超越した原則とみなされます。

そしてそれを実際に適用した場合、次のようになります。

1)女性は祈りの時、男性に対し恭順でなければならない。
2)女性は被り物をすることにより、そういった恭順のしるしを常に表わさねばならない。
3)女性は、唯一適切なしるしとして、ベールを常にかぶらなければならない。


3.ある部分は原則であり、ある部分は慣習であるとみなす立場(選択肢A)

このアプローチによれば、聖書箇所のある部分は原則として捉えられており、よってあらゆる時代に適用されるべきだと考えられています。

その一方、他の部分は慣習とみなされ、従ってもはやそれに従う必要はないとされています。

ですから、女性の恭順という原則は超文化的なものですが、それを表す方法(ベールで頭を覆う)というのはあくまで慣習的なものであり、変わり得るだろうというのです。


4.それは部分的に原則だと捉える立場(選択肢B)。

この選択肢においては、女性の恭順という原則と、頭を覆うという象徴的行為は永続的なものとみなされます。

被り物の種類は文化によって異なるかもしれません。ベールはバブーシュカ型のスカーフや帽子に置き換わるかもしれないでしょう。


apple tree


それでは上に挙げたどの選択肢が最も神に喜ばれるものなのでしょう。

私はこの問いに関する絶対的な答えを有しているわけではありません。こういった問題は非常に複雑で、短絡的な解決に訴えることができない場合が多くあります。

しかし、一つのことは明瞭です。――そういった問題を解決するのを助けるような、なにがしかの実際的指針がぜひとも必要とされているということです。

またこの手の問題には、実践を伴う決断が要求される場合も多く、また「まあ、後の世代の人に解決してもらおう」とこれらを神学的〈押入れ〉にしまい込んでしまうこともできません。

以下に挙げる指針がみなさんのお役に立てれば幸いです。


(2)に続きます。




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被り物と聖書解釈―実際的な指針について(R・C・スプロール)その2

クリスチャン・エンターテイメント―福音主義教会の問題(A・W・トーザー)

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