(前回のつづきです。)

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実際的な指針
PRACTICAL GUIDELINES 



1.明らかな「慣習」の領域を、聖書自体から検証してください


こうして聖書を詳細に吟味することにより、私たちはそこに、「慣習」に関するある一定の範囲(幅 latitude)が示されているのに気づかされます。

例えば、旧約文化の神聖な原則は、新約文化の中でも再び述べられています。

新約聖書の中に再述されている旧約の律法や原則をみることにより、私たちは――慣習、文化そして社会的しきたりを超越する――原則の「核」となるものを見い出すことができると思います。

同時に、旧約の原則のうち(モーセ五書の食物規定など)ある物は、新約の中で無効にされていることにも気づきます。

しかしそれは「旧約の食物規定はただ単にユダヤの慣習であった」ということではありません。

そこには、――キリストが旧約の律法を無効(abrogate)にしたという――贖罪的・歴史的状況の中における相違があるわけです。

ここで注記しなければならないのは、

1)「すべての旧約の原則を新約に持ち込むという考え」も、
2)またその反対に「何も持ち込まないという考え」も、

両者共に、聖書それ自身によって正当化され得ない考えであるということです。

☆☆

それでは、どんな文化的慣習が再文化適応(再文化変容re-acculturation)として可能なのでしょうか。

そういった意味で、言語というのは、文化的に流動しうるもの・可変するものとみなすことができるでしょう。

例えば、旧約聖書の律法はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されることが可能とみなされました。

この事実だけでも、「言葉によるコミュニケーションの可変的な性質」について、少なくとも一つの手がかりが与えられます。

つまり、言語というのは、変化に対して開かれている文化的側面を持っているのです

――しかしそれは、聖書の内容が言語学的に歪曲されるかもしれないという意味ではなく、あくまで福音がギリシャ語と同様、英語や他の言語でも宣教され得るということです。

二番目として、旧約時代の服のスタイルは「神の民が着るべき服」として永続的に固定されてはいないという事が挙げられます。

慎み深さという原則は続きますが、それぞれの地方の服装というのは変わり得るのです。

あらゆる時代の信仰者が着るべき「敬虔な服装」というのは旧約では規定されていません。

また貨幣制度といった文化的相違も、明らかに変化が許容されています。クリスチャンは円やドルの代わりに、デナリウスを使いなさいと言われているわけではないのです。

こういう――服装とか貨幣とかいった面での――文化分析は比較的容易ですが、こと話が文化的な「制度」に及ぶと、これはもっと手ごわくなります。

例えば、政府に対する忠誠や、結婚における権威の在り方などに関する現代の論争においては、よく奴隷制のことが持ち出されます。

妻に対し、「夫に対して恭順でありなさい」と命じているパウロは、同じ文脈において、「奴隷たちよ。主人に対して恭順でありなさい」と言っています。

そこである人々は、「新約聖書において、奴隷制廃止の種が蒔かれているのであるから、女性の恭順という点に関しても同様に、廃止の種が蒔かれているのだ」と主張するようになりました。

両者とも、あくまで「文化的に条件づけられた」制度的構造のことを言っているのだから、、というのがこの線に沿った議論の主張点です。

ここで私たちは、

1)聖書が単にその存在を認めている制度(例えば、「存在している権威 “the powers that be” (欽定訳)」)と、
2)聖書が明確に制定し、是認し、定めている制度

とを注意深く分けて考える必要があります。

存在する権威構造(例えばローマ帝国政府)に対する恭順という原則は、そういった構造を神が是認しているということを必ずしも含意しているわけではなく、それはあくまで謙遜と政府に対する従順に対する呼びかけなのです。

神はカエサルを立派なクリスチャンの模範としては認めていませんでした。にもかかわらず、(人間には隠された)究極的なご自身の摂理の中で、アウグストゥスをそこに任命されたのです。

それに対し、結婚制度における構造や権威のパターンは、「明確な制度およびそれに対する是認」という文脈の中で、旧約の中においても新約の中においても与えられています

家庭における聖書的な構造を、奴隷の問題と同列に置くことは、両者の間に存在する多くの相違点をあいまいにする結果を生み出してしまいます。

ですから、聖書は、

1)抑圧的ないしは邪悪な状況のただ中に置かれた場合、
2)創造の良きデザインを映し出しているような構造を定める場合、

そのどちらの場合においても、私たちクリスチャンのとるべき行動規範のための基本原理を提供しているのです。


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2.一世紀における初代クリスチャンの特殊性を考慮に入れるべきです


一世紀の文化的状況を検証することを通し、聖句をより明瞭に理解しようとする努力それ自体は良いものです。

しかし、ある人が、新約聖書を「ただ単に一世紀の文化を反響したもの」であるかのように捉え聖書を解釈していくとなると、それは全然違った話になります。

もしそうするなら、当時の初代教会が経験していた深刻な衝突――1世紀の世俗世界との対峙――、この事実をどう説明できるというのでしょう?

もし当時のクリスチャンが周囲の世俗世界に適応していたのなら、野獣の前に引き出され殺されるようなことは決してなかったはずです。


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ローマの円形闘技場で、野獣によって殺されようとしている初代クリスチャン。最後の祈りを捧げています。


――そこに本来存在すべきではない種類の――文化的考慮を持って聖句を解釈する時、「聖句を相対化する」という手段が持ち込まれます。(それは極めて微妙な手段かもしれません。)

例えば、コリントにおける被り物の問題についてですが、数多くの註解者たちが、「当時のコリントでは、被り物をしない頭というのは、(地元にいた)売春婦のしるしであった」と記しています。

「それゆえに、」とこの議論は進められます。

「パウロがここで女性に被り物を命じていた理由は、クリスチャン女性が被り物をしないことで売春婦に間違われてしまうことを避けるためだったのです。」

この種の推論の問題点はどこにあるでしょう。

基本的な問題は次の点にあります。つまり、一世紀のコリントに関して私たちが再構築した知識というのが、パウロに――パウロ当人には初耳の――理論的根拠を与えてしまっているということです。

換言するなら、私たちは使徒パウロの口に、私たち自身の言葉を押し込んでいるだけでなく、そこに存在している肝心の御言葉を無視してしまっているのです。

もしパウロがコリントにいる女性に対しただ単に「被り物をしなさい」と言っただけで、そういった指示を出した根本的理由を説明していなかったのだとすれば、私たちはその理由を見出すべく、自分たちの文化的知識に頼らざるをえなかったかもしれません。

しかしここでの場合、パウロは――コリントの売春婦の慣習云々ではなく――創造の秩序をその理論的根拠として挙げています



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当時の文化背景を詳しく調べようという熱心は良いものですが、もしその熱心が、「聖句がそこで実際に言っていること」をあいまいにし不明瞭なものにするのだとしたら、それは危険です。気を付けなければなりません。

パウロが言及している理由を差し置いて、自分たちの推論的な理由を前面に持ってきて、それを主張することは、使徒を軽んじる行為です。

そして、それはとりもなおさず、釈義(exegesis)を自己流の解釈(eisegesis)に転化させるものなのです。



(その3 最終回に続きます。)



おまけの一言

☆ウィリアム・ティンダル(1494-1536)も被り物の擁護者です!



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ウィリアムtyndale
私は答える。-パウロは書簡の中で書いていたそのようなことを口頭で教えていたと。そしてパウロのいうその伝統とはこれである。つまり、女は夫に従い、被り物をつけ、静かにし、女性らしくキリスト者らしく身を包むことである。




追伸)
「コリントの売春婦説」についての検証記事はここです。

「祈りのベールは文化的なもの?コリントの売春婦のことはどうなんですか?」







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被り物と聖書解釈―そして私はどう応答するのか?(R・C・スプロール)最終回

被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)R・C・スプロール

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