これが最終回です。

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3.創造の掟(creation ordinance)は、超文化的原則の指標です


どんな聖書的原則であれ、それが地域的な慣習という域を超えているのなら、その掟は創造の原理より引き出されたものです。

そして創造の掟に訴えるということは、すなわち、契約神が人類と結んだ約定(契約:stipulations)を反映しているのです。

創造の掟は、ヘブル人に与えられたものでもなく、一キリスト者に与えられたものでもなく、またコリント人に与えられたものでもありません。――それは神に対する根本的な人間の責務に根差したものです。

創造におけるこうした諸原則を、単なる地域的な慣習として脇に置くというのは、最悪の形で聖書内容を相対化し、また非歴史化させる行為です。

にもかかわらず、まさにこの点において、多くの聖書学者たちは、聖書の諸原則を相対化してしまっているのです。

創造に関する掟の大切さに関し、一つ例を挙げようと思います。離婚に関するイエスの取り扱いについてです。

パリサイ人がイエスを試みようとやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているか?」と訊いたのに対し、イエスは結婚における創造の掟の箇所を引用されました。

「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる』、、こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6)



この時の状況を再現してみると、当時、ラビの間で激しく意見の対立していた問題(シャンマイ派 vs ヒレル派)に関し、パリサイ人たちはイエスの意見を訊き、その言葉じりをとらえようとしていたことがよく分かります。

しかしそれに対し、イエスはどちらの学派の見解に肩入れすることなく、結婚の規範を総体的に考慮すべく、創造の掟にまで遡ったのです。

もちろん、イエスは創造の掟に関するモーセ律法の修正(modification)についても認識しておられました。

しかしイエスは、世論の重圧に負け、同時代人たちの文化的見解におもねったりすることなく、あくまで結婚の規範を弱めることを拒んだのです。

ここから得られる結論として、創造の掟は――後の聖書的啓示によりそれが明白に修正される(modified)のでない限り――規範に基づいたもの(normative)であるということです。


4.不確かな領域においては、謙遜の原則に従いましょう


仮にあなたが、ある聖書の掟について、これを真剣に検証したとします。

しかし懸命に検証したにもかかわらず、やはり依然として、それが原則なのか、それとも慣習なのか、確信が持てなかったと仮定しましょう。

でもその掟は白黒はっきりした応答を求める類のものであり、あなたはとにもかくにもyesかnoか決定しなければならない立場にあります。

ああ、でもこれぞという最終的決定打を見い出すことができませんでした。さあ、どうしましょう。

こういう場合、謙遜という聖書的原則が助けになります。

それはいたってシンプルな二択です。

1)それはもしかしたら単なる慣習であるかもしれない。でも私はそれを原則として取り扱おう。



それでは実際、それが慣習に過ぎなかったとしましょう。その場合、どうなりますか。あなたが負う責めは、神に従うことにおいて、「ちょっと几帳面すぎた」という事でしょう。


2)それはもしかしたら原則であるかもしれない。でも私はそれを慣習として取り扱おう。



しかし実のところ、それが原則だったと仮定してみてください。

そうすると、この場合、あなたは――超越的な神の掟(要求)を、単なる「人間の作った慣習」というレベルに引き下げるという行為によって――不徳という大きな責めを負うことになりませんか。どうですか。



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もしあなたが慣習原則として取り扱ったとするなら、あなたの負う責めは、過度に几帳面すぎたということ位でしょう。

しかしもし、あなたが神の原則を持ってして、それを単なる地域的な慣習として取り扱うなら、そしてそれを尊守しようとしないなら、その時、あなたは神に対して罪を犯すことになります。



よって、答えは明瞭だと思います。

もちろん、もし謙遜の原則が、言及されているその他の指標から引き離されてしまうなら、それは容易に律法主義を生み出す基となってしまうでしょう。

神が個々のキリスト者に選択の自由を与えられた領域において、信者の良心を規制する権利は私たちにはありません。

聖書が沈黙している箇所について、絶対的な方法でそれを適用させることはできません。

ここで私が述べた原則は、ある聖書の掟に関し、徹底的な検証がなされた後に、それでも尚、それがはたして慣習なのか原則なのか確信が持てない――そういう場合に適用されるものです。

しかしそういう地道な検証を怠るなら、慣習と原則の区別は依然として不明瞭なまま残るでしょう。

私がここで提案している〈謙遜の原則〉というのはあくまで最後の手段、最後の頼み綱として用いられるべきものであって、これを最初から使おうとするなら、それは有害なものになります。


おわりに


文化的な条件付けという問題は、リアルなものです。

時間、場所、言語のバリアというのは、往々にして意思疎通を困難なものにします。

しかしそれでも、文化の障壁というのは、それによって私たちを懐疑主義に陥らせたり、「所詮、神の御言葉は理解不可能なものだ」という絶望に私たちを陥らせたりするほど厳しいものではありません。

実に聖書は、その特異な力によって、あらゆる時代、あらゆる場所、そしてあらゆる慣習の元に生きる人々の最も深い処、そのニーズに語りかけ、福音を力強く伝えているのであり、それは私たちにとって慰めです。

そうです。文化の障壁は、御言葉の力を無効にすることなどできないのです。


―おわり―

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Taken from Knowing Scripture by R.C. Sproul. Copyright (c) 2009 by R. C. Sproul. Used by permission of InterVarsity Press, PO Box 1400, Downers Grove, IL 60515. www.ivpress.com

(出典:http://www.headcoveringmovement.com/articles/head-covering-and-hermeneutics-an-excerpt-from-knowing-scripture-by-r-c-sproul)





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