昨日の記事「『神の小屋』現象から見えてくるもの―福音主義教会の〈新しい神〉」を読んだ読者の方が、次のような感想を寄せてくださいました。

「イエス・キリストを信じなければ救われないというのは、あまりに偏狭。イエスの御名も御言葉も聞く機会もなく生涯を終える人々が、地獄行きというのはおかしい。」

クリスチャンを含めた多くの人々が、このような思いや疑問を持っておられるのではないかと思います。この小説(『神の小屋』)はこの思いや疑問に答える神学を、ある意味クリスチャンも満足出来るような形で見事に提示しています。それゆえここまで成功したのでしょう。



「イエス・キリストが道(the Way)であり、真理であり、いのちであり、この方を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできない」というヨハネ14章6節の御言葉を、文字通り「神の真理」として受け取るか、それともそれを「偏狭」と捉え、『神の小屋』的なスタンスを取るか――――。


分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな、、、


上の言い回しのごとく、イエスの道を通ろうが、モハンマドの道を通ろうが、仏教の道を通ろうが、結局、皆同じ神にたどり着くのでしょうか?

その問いに対して、YESと答えるのが、万人救済説(universalism)の立場であり、『神の小屋』の著者ヤング氏の立場です。

私はこの万人救済説を考える時、頭の中に「ふわふわの羽毛布団」のイメージが浮かびます。

うん。いかにも寝心地が良さそう。その中にくるまったら、ポカポカと体も暖まってくるだろうな。それに表面もガザガザしてないし、カバーの彩りもすごくいい感じ。これならきっとぐっすり眠れるはず、、、、

ねえ、「あの人はまだ救われていない」とか「イエス・キリストだけが神に至る唯一の道」とか、そういう愛のない発言するのはよそうよ。三位一体の神の教理がどうのこうのってうるさく議論したりするの、もういいかげんにやめようよ。

ほら、Interfaith(他宗教間対話)っていうのが最近すごく盛んになってきている。世界の宗教指導者たちが一緒に神を礼拝しよう、世界平和のために共に祈ろうって頑張ってる。これって、すごくいい事じゃない?違う?


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「我々は、他宗教間対話を推し進めていかなくてはならない。」―スリランカで行なわれた「宗派を超えた集い(Interfaith meeting)」での教皇フランシスの言葉。写真右はヒンドゥー教の祭司。情報源

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同じくスリランカにて仏教寺院を表敬訪問する教皇フランシス。2015年1月。情報源

問題はその神学が本当に真実であるかという一点です

この小説で書かれた神学は、多くの点で聖書と異なっています。たとえ多くの人々の心のニーズに添うものであっても真実でなければ、まことの糧をそこから得られることはなく、結局は美しい嘘に過ぎません。

この小説は反キリスト的ではありませんが、聖書とは異なるキリストを提示しています。ここが危険なところではないかと思います。反キリストなのが明らかであれば、クリスチャンはきっと読まないでしょうから。 ー昨日のコメント欄より



もしこういう万人救済の教えが本当に正しいのなら、そして「イエス・キリストを信じても信じなくても皆救われる」のだったら、、、そしたら、私が二十代半ばで地球の裏側までやって来て、今この地にいること自体、愚の極ということになります。

もしこの教えが本当に正しいのなら、私は20代から30代という人生の一番盛んな時期を、全くムダなことのために浪費してしまったことになります。

エミー・カーマイケル(1867-1951)は宣教師として(一度も祖国に帰ることなしに)53年間を南インドで過ごし、インド人の救いのために一生を捧げました。


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彼女は日記の中で、(英国の波止場での、養父ウィルソン氏との今生の別れのことに触れ)、「あれほど辛い思いは二度とできるものではないと思いました」と述懐しています。

このように、これまでに数えきれないほどの宣教師が、愛する家族の元を離れ、望郷・肉親の情を涙と共に十字架に付け、福音宣教のために旅立って行きました。

もし万人救済説が正しいのなら、彼らはまことに無為な犠牲を払ってしまったことになります。

イエス・キリストへの信仰のために14年間、牢獄と拷問に耐えたルーマニアの牧師リチャード・ウルムブランド、キリスト信仰を否まなかったために20年間投獄され、一人孤独の内に殉教の死を遂げたウォッチマン・ニー、

、、ペルシャ人への伝道のために人生をかけ、トルコで客死したヘンリー・マーティン、幸せなアメリカでの生活を捨て、夫と共にビルマに宣教に赴き、多くの苦難をなめた末、若くで亡くなったアン・ジャドソン、、、

おお彼らはなんとムダな生涯を送ったことでしょう!

耐える必要のない事をムダに耐え、世の誉、富、名声をムダに捨て、大切な人生を丸ごとムダにしてしまいました。そうです。もし、万人救済説が正しいなら、彼らほど哀れな人たちがこの世にいるでしょうか?


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↑リチャード・ウルムブランド(1909–2001)
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↑ウォッチマン・ニー(1903-1972)
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↑ヘンリー・マーティン(1781-1812)
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↑アン・ジャドソン(1789-1826)


さらに、使徒パウロはどうでしょう。ペテロ、マタイ、アンドレ、ピリポ、ヨハネ、トマス、マタイ、ステパノ、ヤコブはどうでしょう?

十二使徒のほとんどが殉教の死を遂げたと言われていますが、これもまた、万人救済説のレンズで見るなら、ムダな死でしかないでしょう。

そして私たちの主イエス・キリストはどうでしょう?

もしダライ・ラマの道でも人が罪と死と呪いから救われるのなら、イエス・キリストはムダに地上に遣わされ、ムダに苦しみ、ムダに十字架上での死を遂げたことになります。そんな大きな犠牲を払わなくても良かったはずだからです。


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ゲッセマネで「苦しみもだえ、、、汗が血のしずくのように地に落ちる」(ルカ22:44)ほど、なぜイエスは苦悶する必要があったのでしょう?

それは実に、イエスが「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)であり、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であられるからです。

そしてイエス・キリスト以外には、誰によっても救いはないのです。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです(使徒4:12)。

そして神と人との間の仲介者も、唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです(1テモテ2:5)。

もしこういった御言葉を宣言することが、私を「偏狭なファンダメンタリスト」にするなら、私は喜んでわが身にそのレッテルを貼りましょう。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。ガラテヤ1:10



冒頭の問題提起に戻ります。「イエス・キリストを信じなければ救われない」というメッセージを「偏狭」と取るか、それとも「聖書の真理」と取るか。

万人救済説に対する真のアンチテーゼは、私たち信仰者の生き方だと思います。

私たちがそのように信じ、本気でそのように生きることを通し、この世に証ししていくものだと思います。

それが己の人生をひっさげた、主イエスに対する私たちの愛の告白です。



長くなりました。読んでくださってありがとうございます。





この記事の中で取り上げた信仰者の伝記をお読みになりたい方へ

1)鉄のカーテンの向こうから~ リチャード&サビナ・ウルムブランドの生涯(ルーマニア)ココ

2)ビルマの白百合―アン・ジャドソン宣教師の生涯と信仰 ココ

3)ヘンリー・マーティンの生涯 その1その2 





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