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真の美しさ

レスリー・ルディー



唯一なる真の美しさというのは、イエス・キリストに全てを捧げ切った人生から生み出されるものです。

あなた自身が死に、人生の主舞台から退き、主に道を譲る時、その時はじめて主があなたの内に、そしてあなたを通して顕れ出ます。

バステスマのヨハネは言いました。「あの方が盛んになるために、私は衰えなければならない」と。

もし私たちが道の真ん中にたちふさがり、自分の追及したいものを追求し、自己満足と自己実現に明け暮れる生き方をしているなら、主の美しさは私たちを通して見出されることはないでしょう。

たしかに私たちは、周りにいる子たちよりは、ほんのちょっぴり「清く」、倫理的にも、ましな生活をしているように見えるかもしれません。

しかし、真の意味で、福音に生きる人生の本質――つまり、私たちの王イエスの生ける供え物になること――というのは、そのような生活からは得ることができません。

私たちが今持っているもの――、これはもはや何一つとして自分の物ではないのです。

自分の時間というのは、もはや存在しませんし、
自分のお金というのも、存在しません。

そして自分の財産や富、自分の「人生プラン」というものも、もはや存在しません。

今やすべては、主に関することなのです。そうです。私たちに関することではないのです。

私たちの住む世界は、絶えず、私たちに不安感をもたらすようなメッセージをこれでもかこれでもかと投げつけてきます。

――お前はかわいくもないし、魅力的でもない。それに不格好ときてる。

そこで教会の人たちはそんな私たちを慰めようと、次のように言ってきます。

「いえいえ、あなたは十分に魅力的だし、それに、ありのままのあなたが素敵なんですよ」と。

しかしこういったメッセージに潜む危険性というのは、これが往々にして、私たちの自尊心を不当に高めてしまうことにあると思います。

こうして私たちは自分の内側をのぞきこみ、そこに自分の価値、美しさなどを探し始めるのです。

もちろん、私たちはイエス・キリストにあって価値ある存在です。

しかし、覚えておかなければならないこと、それは、主が私たちを内側から造り変えてくださるまでは、私たちは本当の意味で、真の美しさを持つことはできないということです

多くの若い女の子たちが、自分たちの自由時間を、フェイスブックや、友達とのチャット、映画、テレビ番組などにことごとく費やしてしまっています。


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そして男の子たちとの関係に夢中になり、どんな服を着るか、どこのブティックに行こうか、、、とむなしく意味のないことで人生を浪費してしまっています。

その一方、地球の裏側では、イエス・キリストのために、文字通り、自らの人生を投げ出し、殉教している人々がいるのです。

ですから、私は若いみなさんに奨励の言葉をかけたいと思います。

私たちが普段、目にしているもの、(そしてもしかしたら、これまで自分たちの慣れ親しんできたキリスト教のヴァージョンでさえも、、)もしかしたら、神様の目には不十分なものと映っているかもしれません。

神様は私たちに、それ以上の何か を求めておられるのかもしれません。

イエス様はおっしゃいました。だれでも、自分の持っているものをことごとく捨て切るものでなくては、主の弟子になることはできないと。

主の弟子になるというのは、ただ単に、「罪びとの祈り」を唱えることを意味しません。

キリストが私のために死んでくださったということを、単に頭で理解することでもありません。

それは自分の命を明け渡すという意味です。

そうです、それは、主イエスとの間に交わされた契約なのです。そしてそれは、私たちの持っている全てを主に捧げ切るということなのです。

主イエスの元に来るなら、私たちはもはや自分の人生にしがみついたり、固執したりはできません。

私たちは自分の十字架を背負って、このお方に従っていかねばなりません。

私たちは「生ける供え物」とならなければなりません。そして主イエスが私たちの「すべて」をお用いになれるよう、主にYESと言わねばなりません。

それが真の意味で、主にすべてを捧げ切った人生です。

中途半端ではなく、余すところなくすべてを捧げ切った人生です。

私は長い間、「十字架を背負って、主に従う」という御言葉の意味を悟ることができずにいました。ただ「いい表現だなあ」ぐらいにしか思っていなかったのです。

でも、実際、主は私たちに「何を」求めておられるのでしょう。

主は私たちに「全て」を与え、ご自身を捧げ切ってくださいました。


あなたはどうですか。

あなたはこのお方に全てを捧げますか。







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あなたに傷の跡はない、、のでしょうか。―エミー・カーマイケルの詩

祈りの中で―ピューリタンの祈り

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