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)のつづきです。



それでは、先ほど挙げた「クリスチャンは他宗教に対し喜んで寛容を示す」という主張についてもう一度考えてみよう。

ここで、最初の意味における「寛容」を想定してみてほしい。

――つまり、「キリスト教と同じように、他宗教もまたその権利を享受すべきである」という事を喜んで認めているクリスチャンの立場である。(このクリスチャン自身、他宗教が幾つかの点においてかなり誤謬を有していると考えているとしても、である。)

「寛容」についての、いわゆる古典的な理解においてでさえも、そこにはある一定の不確かさが残っている。上述の主張は、法的寛容さを考慮に入れたものなのだろうか。

その場合、クリスチャンは、法の下で全ての宗教マイノリティーの人々が等しい権利を有することができるよう、そのためには喜んで戦うといった事を意味するだろう。

もちろん、クリスチャンの観点から見るなら、これはあくまでキリスト再臨までの間の、一時的な取り決めに過ぎない。

現在のこの堕落し崩れた世界秩序の中にあって、おびただしい偶像礼拝の時代にあって、そして神学的・宗教的混沌の時代にあって――こういった衝突・偶像礼拝・対峙・激しく異なる思想システム(神ご自身に対する思想でさえも)が――あくまで持続しつづけるという事を神はお定めになっておられるのである。

しかし新しい天と地においては、神のご意思や願いは無下(むげ)にされず、敵対されず、讃美にあふれた喜びの対象となるであろう。

しかしながら目下の所、カイザル(*政府と読みかえることもできる)がこの混沌とした世にあって、社会秩序を保持するべく責務を負っている。

確かにカイザルは神の摂理的至上権の下にとどまっている。しかし――神とカイザルという――この両者には違いがある。(イエスご自身も、『カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい』と言っておられる。)

つまり、現在のこの秩序は、新しい天と地のようにはならないのである。それゆえ、この法的寛容でさえも(もちろんクリスチャンはこれを擁護しなければならない)、現在という時に限られたものである。

換言しよう。これは、――神の国の夜明けはもう始まっているが未だに完成はしておらず、(いわゆる神学者の言うところの)すでに始まってはいるが最終的な終末論は迎えていない――この時期に限られたものなのである。


養われ育まれるべきもの


もちろん、「クリスチャンは他宗教に対し喜んで寛容を示す」という文において、これは法的寛容ではなく、社会的寛容を指し示しているという事も考えられるだろう。

多文化社会の中で、異宗教の人々は互いを軽視することなく共存すべきである。

なぜなら、すべての人は神のかたちに創造されたのであり、各人は最後の日に、神に対し申し開きをするように定められているからである。

また、私たちクリスチャンが社会的な意味において他の人々より勝っている、などという事も全くない。そのことも肝に銘じておく必要がある。

私たちは偉大な救い主のことを証しするが、だからといって、自分たちのことを優れた者などと思い上がってはいけない。その意味においても、社会的寛容というものは奨励されるべきである。

しかしこういう主張をされる方がいるかもしれない。

「聖書の神は――たとえ新契約の期間であっても――寛容を「善」とはみなしておられないのではないでしょうか。もし人が悔い改めず、回心によってキリストを主と認めないのなら、そういった人々は滅んでしまいます」と。

たしかに、聖書の神は(二義的な意味において)寛容を善とはみなしておられない。しかしながら、神はその忍耐ゆえにキリストの再臨を遅らせており、それはまさしく主のご寛容といえないだろうか。――人々を悔い改めに導くために(ローマ2:4)。


まとめ


ここで要点をまとめてみたい。

悪しき思想や行動に対しては消極的に(一義的な意味における)寛容が示されるべきである。――彼らの悪行の要因についてはこれを大胆に指摘しつつ。

その一方、こういった悪しき思想や行動を行なっている人々に対しては、臆することなく積極的に(ここでも一義的な意味における)寛容が示されるべきである。――その際、それにより彼らが悔い改め、信仰を持つよう希望を抱きつつ。

その意味で、個々人に対する寛容というのは、養われ育まれるべき、すばらしい徳であるといえよう。



ーおわりー

D. A. Carson. The Intolerance of Tolerance,Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing Co. 2012, p.2-6.



おまけ)
↓五分間の短いVTRですが、とても勉強になりました。ポストモダニズムの進展と、モダニズムの違いを分かりやすく説明しつつ、昨今の新しい「寛容」というものが一貫性に欠け、実際には「非寛容」であるという事実について、D.A.Carson師がレクチャーしておられます。



"The new definition of tolerance is not only inconsistent, it's incoherent and proves, in fact, to be less tolerant than the brand of tolerance that was around under modernism. Because the very point it comes up with that which disagrees with it the most, it has to dismiss all opponents as intolerant and bigoted, and therefore becomes, in fact, totalitarian." -D.A.Carson





「父と娘」シリーズ(1)

「寛容」という「非寛容」(The Intolerance of Tolerance)―D・A・カーソン