11291.jpg



神へのあこがれ
The Pursuit of God




第六章 語りかける神の声
6. The Speaking Voice



初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. John 1:1




キリスト教の真理については無知な、ごくごく普通の教養人が、上の聖句を遭遇したと仮定してみましょう。そうすると、おそらくこの人は次のように結論づけるだろうと思います。

「えーと、つまり、ここでヨハネが言っているのは、『――語り、そして自分の考えを他者に伝達しようとするのが神の性質』っていうことじゃありませんか?」と。

確かに、その人の指摘は正しいと言えます。ことばというのは、思想や考えが言い表されるための媒介物です。

そして、この「ことば」(Word)という部分を永遠の御子に当てはめて考えるなら、私たちは次のような結論に導かれるでしょう。

――つまり、自己表現というのは神性(Godhead)に本来備わっているものであり、神はとこしえにご自身のことを被造物にお語りになりたいと願っておられるのだと。

聖書全体もこの考えを後押ししています。神は今もお語りになっておられると。

「神は語った」という過去形ではなく、「語っておられる(God is speaking)」という現在進行形なのです。

神はそのご性質により、今も絶え間なく明瞭にお語りになっておられます。そうです、神はご自身の発せられるその御声で、この世界を満たしておられるのです。

私たちが考えなければならない大いなるリアリティーとはまさに、この方の世界に満ち満ちる「神の声」に他ならないのです。もっとも簡潔にして唯一満足のいく宇宙起源説とはこれです。「神は仰せられた。するとそのようになった。」

自然法則の因は、ご自身の被造物の中に内在する、生ける神の御声です。

また全世界を存在するにいたらしめた神のこの言葉をもって、それをそのまま「聖書」と解釈することはできません。

なぜなら、ここで私が言っている生ける神の御声とは、成文化もしくは印刷された言葉ではなく、あらゆる物の構造の中に語り込まれた「神のご意思の表現」だからです。

この神の言葉は、生き生きとした潜在性をもってこの世界を満たしている神の息です。

神の声というのは自然界の中において最も強力なパワーであり、実に自然界における唯一の力なのです。なぜなら、あらゆるエネルギーというのは、力に満ちた御言葉が語られたゆえに、今ここに存在しているからです。

聖書は成文化された神の言葉です。そして、それが「書かれたもの」であるゆえ必然的に、聖書はインクや紙やなめし革等によって閉じ込められ、制限された状態にあります。

一方、神の御声というのは、主権者なる神が自由であるように、生きており自由です。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63b)。

いのちは、語られている言葉のただ中にあります。聖書の中の神の言葉は、それが宇宙における神の言葉と調和しているゆえに、力を持ち得ているのです。

それは「今まさにここに在る」御声であり、それが成文化された御言葉を全能のものにしています。そうでなければ、それは書物の扉の中に閉じ込められ、力なく横たわるしかなくなってしまうはずです。

私たちは、創造時に、物質と接触をもたれた神のことを考える際、あたかも神が大工のように、物を形作ったり、備え付けたり、建てたり、、という風に、それらを低く原始的な見方でとらえがちです。

しかし聖書の見方はそうではありません。

主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。詩篇33:6

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。詩篇33:9

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、 ヘブル11:3a



留意しなければならない点は、神がこういった箇所で言及しておられるのは、成文化された神の言葉ではなく、今もお語りになっている御声(His Speaking Voice)のことだという事です。

全世界を満たす主の御声は、次のことを意味しています。

ーそれは、聖書に先行し存在してきたものであり、
ー創造の黎明以来、けっして沈黙することなく、今に至るまで宇宙の隅々まで鳴り響いている声である、ということです。

神のことばは生きていて、力があります。

はじめに神は無に対して仰せられました。そうすると、それは(有形の)なにかになりました。

カオス(混沌)がそのことばを聞くと、それは秩序と化し、
暗闇がそれを聞くと、それは光となりました。

そして神は仰せられた(said)。するとそのようになった(it was so)。



――原因と結果を言いあらわす、この双子のような対句は、創世記における、創造の記述の箇所全体に記されています。

「仰せられた(said)」は「そのようになった(so)」を説明しており、一方、「そのようになった(so)」は途切れずに今も続いている「現在」という時を表現する神の言明(said)なのです。

神はここに在られ、今も語っておられます。そして、この真理は、他のあらゆる聖書真理の背後に存在しています。そうです、これなしには、啓示というものは存在しえないのです。

はたして神は書物を記された後、それをほいと使者に託したまま何もされず、読む人が何の助けも得られないような状態に私たちを放置されたのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

主は聖書に仰せられ、語られたことばの中に生きておられます。そして絶えず私たちにことばを語っておられ、その御言葉の力が時を超えて保たれるよう、取り計らっておられるのです。

神が土のかたまりに息を吹き込むと、それは人となりました。主は今も人に息を吹き込んでおられ、(やがてその営みがなくなると)人はまた土になります。

「立ち帰れ、人の子らよ」というのが、堕落時に主が仰せられたことばであり、それにより、神はすべての人に死を定められました。――それに対し、どんな付け足しの言葉も必要とはされませんでした。

誕生から墓場まで、人類の織りなすこういった一連の悲しい営みは、結局、神が最初に仰せられたこの言葉の充足性を証明しているものであります。

まことの光があった。それは世に来て、すべての人を照らすものである。ヨハネ1:9



この聖句については次の別訳もありますが(「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」)、いずれにしても、依然として真理がそこにあります。

つまり、神のことばは、魂の中を照らす光としてすべての人の心に感化をもたらしているということです。

すべての人の心の内で、この光は輝き、神のことばは鳴り響き、そこから逃れ得るものはありません。

もし神が実際に生きておられ、この世に存在しておられるのなら、必然的にそのようであるはずです。それに対しヨハネも然りと言っています。

聖書のことを一度も耳にしたことのない人であってさえも、依然としてこのことばは彼らの心に十分な明瞭性をもって語られており、それは、彼らの心から永久に弁解の言葉を取り除くためなのです。

彼らは、このようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ローマ2:15



神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:20







(その2につづきます。)
私訳, picture from here


スポンサーサイト

『神へのあこがれ』 A・W・トーザー 第六章 語りかける神の声(その2)

「あなたがもし、このような時に黙っているならば」

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。