We_Can_Do_It! 20151204

"We Can Do It!"というこのポスター(J・ハワード・ミラー作)は、元々、1943年、第二次世界大戦中に戦意高揚のためのプロパガンダとして作成されたものです。1980年代に入ると、このポスターはフェミニズム思想普及のために広く用いられるようになり今日に至っています。




これは前回の記事(なぜ今どき「祈りのベール」?―私の応答)の続編に当たります。

これまで他の兄弟姉妹と共に被り物の教え(1コリント11章)に取り組み、検証していく中で、私たちがたどり着いた一つの結論がありました。

それは、「祈りのベールの教えは、相補主義に対する理解なしには受容が難しい」という事です。



相補主義(Complementarianism)



相補主義というのは、1960年以降、福音主義教会内に浸透してきたフェミニズム思想に対して危機感を抱き、その世俗イデオロギーを受け入れまいと奮闘してきたクリスチャンの聖書理解および立場のことを指しています。

逆にその世俗イデオロギーを(一部分あるいは完全に)受容・迎合しているクリスチャンの立場を対等主義(Egalitarianism)といいます。
(*なお対等主義は、「福音主義フェミニズム Evangelical Feminism」とも呼ばれています。)

相補主義および対等主義について、私は以前、検証記事を書きました。


「相補主義」と「対等主義」について
――福音主義教会を二分する二つの視点 【ジェンダー問題】(その1)(その2




世俗イデオロギーとの全面対決


西洋で勃興したフェミニズムは20世紀以降、教育・メディア・行政・法曹界だけにとどまらず、またリベラル教会内だけにとどまらず、私たちの福音主義教会内にも年毎に深く浸透してきています。

(フェミニズムがいかに私たちクリスチャンの思考・考え・行動に深刻な影響を及ぼしているかについては、南バプテスト神学大学のメアリー・カスィアン教授によるこの記事をご参照ください。)

フェミニズムの目指す思想的最終目標は、「秩序の逆転」です。

つまり、創造主なる神によって定められた創造の秩序(Creation Order)を「再解釈」し、「再構築」しようという人本主義に基づいた試みです。

ここで話を祈りのベールに戻します。みなさん、もう一度、1コリント11章1-16節をよく読んでみてください。

この箇所でパウロは、一般に言われているような「当時のコリントの文化が云々、、」という文化論など全く展開していません。(この点についての検証記事ココココ

ここで言及されているのはheadshipであり(3節)、創造の秩序であり、権威であり、栄光です。

また10節の「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためです。」から、姉妹の被るベールは、神礼拝および霊的な次元においても意味をなすものであることが分かります。(←この点ついての検証記事ココ

ですから、ここが核心点なのです。

つまり、創造の秩序を破壊しようとしているフェミニズム思想にとって、その秩序の回復のシンボルである「祈りのベール」は、憎たらしい敵なのです。

60年代の「フェミニズム勃興」と、同じく60年代の「祈りのベールの衰退」の相関関係については、世俗の学者もこの事実を認めています。

ですから、御言葉への愛と従順から、今後、祈りのベールを始めようとしている姉妹の方々、ならびに、この教えを擁護しようとされている男性の先生方(兄弟のみなさん)は、望むと望まないとにかかわらず、フェミニズム思想との全面対決を余儀なくされます。

「なぜ一枚の布きれがこれだけの論争を生んでいるのか?」という問いかけに対し、Gospel for AsiaのK.P.Yohannan師は、次のような事を書いておられます。


(聖書の)シンボルというのは神にとって重要な意味を持っており、そのシンボルに倣うという行為は、霊的な世界に影響を及ぼします。

祈りのベールをすることの難しさについて、かつてある方が次のように言いました。

「ベールを被る事は私にとってかなり難しいです。というのも、私はこれまでずっと自立した女性として生きてきましたから。」

彼女はここで「自立性を失うこと」と「ベールを被ること」という二つの事柄を相互に関連させていますが、これは何かを頭の上にのせるという事に対する答えとしては、不思議なほど客観性を欠いています。

なぜでしょうか。一体どうして頭に何かを被る事が、その人の自立の有無に影響を及ぼすというのでしょう。

つまり、これは肉的な領域だけでは考えることのできない問題なのです。

被り物というのは神によって導入されたシンボルであるゆえ、それは霊的世界においても大声で何かを宣明しているのです。そして敵であるサタンと肉は、神の権威と統治を認めまいと敵対してきます。

客観的に考えてみてください。頭の上に布切れをのせるという行為が一体全体どれほど難しいというのでしょう?

ファッションのためなら、みんな四六時中していることなのです!

これだけのシンプルな行為が、これほどまでの論争と衝突を引き起こしているという事自体、そこに確かに〈なにかがある〉と考えるのが当然ではないでしょうか。

ですから、この葛藤というのは、頭に何かを被るという物理的な行為をめぐってのものではなく、霊的な世界においてなされるインパクト、それゆえだと言うことができます。

K.P. Yohannan, Head Coverings, 2011, p.30




おわりに


ローマ人への手紙の中で、使徒パウロは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしているという深い真理を述べています。

被造物は、今も切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでおり、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられることを切望しているのです(ローマ8:19、21,22)。

神のお定めになった創造の秩序を破壊しようとする人間の罪と自己中心によって、物を言うことのできないさまざまな被造物も痛手を受け、苦しんでいます。

イエス・キリストはそういった混乱と無秩序で汚染された世に来てくださり、十字架上で死んでくださいました。そしてその十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を――地にあるものも天にあるものも――、神と和解させてくださいました(コロ1:20参)。

神のご計画の完成に向け、御霊ご自身が「言いようもない深いうめきによって」(ローマ8:26)私たちのために執り成してくださっています。

悪魔が火と硫黄との池に投げ込まれた後(黙20章)、黙示録21、22章において、私たちはそこに完璧な神の秩序の回復をみます。

創造の秩序が回復された世界はなんと美しく、平和に満ちていることでしょう!

どうか、――創造の秩序を美しく表現する「祈りのベール」というこのシンボルが――、回復と神の栄光を切望する信仰者によって尊重されますように。

そして、このシンボルの回復を通して、創造主なる神の心をお喜ばせすることができますように。

アーメン。


ーおわりー


補足資料です
イギリスの兄弟による被り物についてのVTRです。的確で的を射た説明がなされています。




聖徒は孤独な道を歩まなければならない ―A・W・トーザー(その2)

聖徒は孤独な道を歩まなければならない―A・W・トーザー(その1)