[相補主義] ブログ村キーワード

この記事は、以前に書いた「相補主義」と「対等主義」について――福音主義教会を二分する二つの視点 【ジェンダー問題】()() の追記にあたります。

男女の「平等 Equality」という点に関し、対等主義およびフェミニズムの視点で聖書を解釈する人々が、(男女における)機能および役割の「相違」を、「優劣」と同一化して考えてしまっている誤謬について、私は前の記事で触れました。

その部分をもう一度ここに挙げようと思います。

相補主義および対等主義それぞれの主張に耳を傾ける際に、私たちが気を付けなければならないのは、Equality(平等、同等)という言葉の用いられ方と意味だと思います。

対等主義のみなさんの誤解は、(男女における)機能および役割の「相違」を、「優劣」と同一化して考えてしまっているところにあります。

本質(nature)における男女の平等および等価値性と、機能・役割(function, role)における違いを分けて考えることができずにいるのです。

(中略)かしら(headship)のことについても少し触れておきたいと思います。

「女のかしらは男(1コリント11:3)」であるという聖書の真理があります。

しかし現代人はこれをすぐに「男女差別」だとか「女性蔑視・抑圧」と捉えがちです。しかし、同じ節に、「キリストのかしらは神」と書いてあります。

それでは、これは「抑圧的・差別的な」父なる神による「キリスト差別」「キリスト蔑視・抑圧」となるのでしょうか?断じて、否です。

御父と御子は本質において全く等しい存在です(ヨハネ10:30等)。その一方、御子は、かしらである御父に「従われました」。

「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」1コリント15:28

もちろん、ここで御子が御父に「従う」ことは、御子を御父より「劣った」存在にすることにはなりません。

このように、「本質における等価値性と、役割・機能における相違」は、男女のことだけにとどまらず、私たちが三位一体の神について深く知っていく過程においても、とても助けになります。



「本質における等価値性と、役割・機能における相違」は、三位一体論の中で、キリスト教会が正統教義として歴史的に認めてきたものです。

この点に関して、ウェイン・グルーデム教授は次のように述べています。

これをより簡単に表現するなら、『存在においては同等ながら、役割においては従属関係にある』と言うこともできるであろう。この両方が、真の三位一体論に必要とされる。

本体論(ontological 存在論)的な同等性がなければ、すべての位格が完全に神とはならない。だが、経綸的(economical 立場・役割上の)な従属関係がないならば、三つの位格の相互関係に本来備わった違いが全くないことになり、従って、永遠に父、子、聖霊として存在する、三つの異なる位格は存在しないということになる。

Wayne Grudem, Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000), p. 251. 引用元:ココ



しかし、経綸的な意味における、御子の御父に対する永遠の従属(The doctrine of the Eternal Subordination of the Son〔略称ESS〕)は、「近年、相補主義者たちがでっち上げた新教理である」という批判がフェミニスト神学者の間から出されています。


このような批判が出される二つの理由


なぜ、フェミニスト神学者は、ESSが相補主義者たちのでっち上げであり、正統的な三位一体論ではないと批判しているのでしょうか。

理由は大きく分けて二つあるのではないかと思います。

一つ目は、前述したように、「本質における等価値性と、役割・機能における相違」に対し、彼らが両者を分けて考えることができていない点にあると思います。

また二つ目は、こういった人々が、三位一体論におけるアリウス的見解である従属主義(Subordinationism)とESSを一緒くたにして考えてしまっているという点です。

ご存知のように、初代教会の時代に起こった従属主義は、本質においても、役割においても、御子は御父に劣るという見解であったために、異端と認定されました。

しかしESSは、御父と御子の間の本体論的(ontological)同等性を認めており、異端である従属主義とは全く異なるものです

*両者の根本的な違いについて、詳細かつ分かりやすく説明した論文があります。PDFファイルで読めます。

Stephen D. Kovach, Peter R. Schemm Jr, A Defense of the Doctrine of the Eternal Subordination of the Son, JETS, 42/3 (September 1999), p 461–476, click here.




おわりに


いにしえの聖徒は次のような意味深いことを述べています。

三位一体について深く論じても、もし謙遜を欠き、従って三位一体の神のみ心にかなわなければ、何の益があろう。、、

たとえ聖書をことごとくそらんじ、哲学者の教えをことごとく知ったとしても、神の恵みと愛とがなかったら、何の益があろう。神を愛し、ただこれにのみ仕えるほかは、「空の空、いっさいは空」(伝1:2)である。この世を軽んずることによって天国に近づくこと――これが最高の知恵である。

トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』



三位一体の教理については、この2000年余り、多くの聖徒たちが正統教義のために文字通り、命を賭けて闘ってきました。こういった先人たちの真摯な努力に私たちは大いに感謝することができると思います。

その一方で、私がいつも自分に言い聞かせているのが、「正統教義は(それは確かに必要だけれども)あなたを天国に行かせてくれるパスポートではない。」ということです。

フェミニスト的な視点が、男女のあり方だけにとどまらず、御父・御子の関係についても、独自の見解を打ち出している現状をみて、今回、私はこの追記を書くことにしました。

残念なことに、本質と役割を混同した対等主義的「平等 Equality」の観念が、この世の中でも、クリスチャンの間でも拡がっていっているからです。

しかし、忘れてならないのは、人は神を知りつくすことはできず、私たちが三位一体の神について知っているわずかばかりの知識は、ただ主の一方的な憐れみによって私たちに与えられた贈り物であり恵みであるということではないかと思います。

読んでくださってありがとうございました。





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