[相補主義] ブログ村キーワード

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福音派の牧師D.A.カーソン、ジョン・パイパー、ティモシー・ケラーの三者が「なぜ福音連盟(The Gospel Coalition)は相補主義の立場に立っているのか?」というテーマで短い鼎談(17分)を行ない、その様子がVTRで一般に公開されています。(ココ

*相補主義と対等主義という用語を今日はじめて耳にされた方へ。まずはこの記事をお読みになってください

この鼎談では、「なぜ福音連盟は、信仰告白の項に、ここまではっきりと相補主義の立場を打ち出しているのですか。なぜそれを表明する必要があるのですか?」という質問に答える形で、三者がそれぞれ意見を述べておられます。

今回は、その鼎談の中で、特に印象に残った箇所を、みなさんと共有していけたらと思っています。

☆☆

相補主義は「伝統主義」ではない


ジョン・パイパー師は、「相補主義と聞くと、人々はありとあらゆる『旧式』かつ『伝統的』なイメージをそこに持ち込み、そうしておいて、対等主義こそ『良き知らせ』であり、相補主義はダメなものと決めつけがちです。しかし相補主義は伝統主義ではありません。」と前置きをしつつ、相補主義を次のように定義しておられます。

神が男女をそれぞれ異なるものとしてお造りになりました。そして神は男女それぞれに見事に適合した役割をお授けになったのです。そしてその適合性というのは、生物学的なものにとどまらず、各人のpersonhoodや属性そのものにも当てはまっているのです。



そして相補主義的な関係が、家庭および教会という領域でそれぞれ次のような形で反映されると言っています。

結婚においては、男性は犠牲的な愛を持ち、リーダーとしての責任を担います。そして、こういった男性のあり方を大半の女性は好んでいます。謙遜にして霊的そして神を畏れるリーダーをかしらとして持つ妻は、生き生きとしています。そして妻は恭順さを持って自分の夫をサポートするのです。

また教会においては、霊的で謙遜な男性の長老(牧師)たちがキリストの愛をもって人々を教え導くというあり方です。




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聖書的「男らしさ」の崩壊


またここ30-40年の間に起こった、聖書的な男らしさ(masculinity)の崩壊が、対等主義者の目指す〈理想社会〉をもたらさなかったばかりか、逆に残忍な男性社会を生み出したという現実に触れた後、パイパー師は次のような事を言っています。

モア氏が数週間前、こう言いました。「もし(罪びとである)男性たちが、神を畏れる謙遜なリーダーシップについて教わらずそのまま放置されるなら、彼らは対等主義者のいういわゆる〈やさしい男性〉にはならず、反対に、受動性――突如としてカッとなったり、残忍になったりする――を引き起こす結果になるのです。」

そして現在、男性らしさに関する、社会全体に拡がるこういった混乱は、同性愛、虐待する女性、顧みられない子どもたち、父親不在等の問題にもつながっているのです。



パイパー:教会は男らしさが何であるかについて人々に答えることができなければなりません。

8才の子どもが「ねえママ、大きくなって、ぼくが(女じゃなくて)男になるっていうことはどういうこと?」と訊くその問いにあなたは答えることができなければなりません。この問いに対する答えを対等主義者は持っていないのです。



福音主義フェミニズム問題に対しては、その他の問題以上に、私たちキリスト者の明確な応答が求められているとした上で、D・A・カーソン師は次のように言います。

なぜならこの問題に関しては、現在、余りに多くの人がこれ(=聖書的男性像・女性像)を否定したり、バラバラにしたり、破壊しようとしているからです。

このような現状がある中で、私たちが(教会やミニストリーの公的信仰告白の項で)自分たちの相補的立場をはっきり表明しないことは、ある意味、無責任なことではないでしょうか。




声を挙げる勇気


1テモテ2章やエペソ5章などは、現代の文化から言えば、かなりタブーな箇所です。しかしそういった世俗文化の潮流にあえて立ち向かおうとしている信仰者に対し、パイパー師は次のような激励のメッセージを送っています。

あなたは今後、「猥褻(わいせつ)者」呼ばわりされるようになっても、それでも(聖書の真理のために)あえて立とうとしていますか。

女性を公正に扱っていない「性差別主義者」呼ばわりされても、それでもあなたは立ち上がりますか。

そして、こういう中傷者たちの悪に対しても悪を報いず、あなたの教会に前向きなビジョンを与え続けるそのようなガッツがあなたにありますか。

これは、解釈学上の問題というよりは、勇気の問題です。




隠れ蓑

D・A・カーソン:その通りです。昨今、「これは解釈学上の問題でして、、」という言い分が――聖書が明白に繰り返し述べている事項――に対する言い逃れの一種として用いられています。

それは例えば、聖書が実際に何を言っているのかということはさておいて、「さあ、1テモテ書簡の背景を〈再構築〉してそこに理論的根拠を見出そう」とか、、そういう形を取ったりしています、、こういった問題は非常に深刻だと思います。



なぜこれが福音に深く関わる問題なのか


こういった問題を取り扱う上で、各文化における多様性も考慮すべきというケラー氏の意見に対し、カーソン師は「そうです。しかし、家庭および教会における男女の異なる役割、および教会の中で男性に与えられている「教える権威」については、聖句からも、これらが交渉の余地のない、譲るのことのできない肝要な一点であると思います」と言っておられました。

なぜでしょう。――それは、男女の関係や結婚が、聖書に啓示されている深遠な真理を映し出すものだからです、とカーソン師は言葉を続けます。

こういった事に関し、私たちは沈黙を保つのではなく、神のお造りになったすばらしい計画の一部として、むしろそれを喜ぶべきではないでしょうか。

これは男性にとっても女性にとっても良いものであり、男女の関係や結婚は、聖書の中で描かれている「キリストと教会」「ヤーウェとイスラエル」そして究極的には「小羊の婚宴」などとも結びついているのです。

これらは、水平的、社会学的なレベルにとどまらず、大きな動きとも関連しており、そのため究極的に言って、背教とは霊的な姦淫のことを意味しているわけです。ここを見落とすなら、私たちはその他多くの点においても今後、破城をきたすようになるでしょう。



黙っていてはいけない


最後にカーソン師の意味深いメッセージを引用して、この記事を終わりにしようと思います。

そうです、この問題に関しては、たとえあなたが単に「沈黙を保つ」というスタンスを取っているとしても、結局それは、あなたがこの現状――現在、社会・文化全体がある方向へ流れていっている実態――を「黙認」しているという事になるのです。

ですから、福音連盟が今、――危険かつ多くの点で痛々しいほど非聖書的な――こういった潮流に対し立ち上がることが非常に肝要なのです。





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