デイヴィッド・ベルソー著 『世界中をひっくり返した神の国』 
第9章より一部抜粋

質問)「敵を愛しなさい」というイエスの御言葉は、ただ個人としての報復行為に対してのみ適用されるのであって、国家の後押しを受けた国事行為には当てはまらないのではないでしょうか。



クリスチャンの中には「もし、私たちが個人として、悪に悪を報いるなら、それは間違っている。でも、それを国家的権威の下で行使するなら、イエスの教えを犯すことにはならない」と主張している方々もいる。

アディン・バロウが、『犯罪が美徳へと様変わりするためには、どのくらいの人数が必要なのか』と題する小冊子を書いたのだが、私にとって、上のような議論は、アディンの言葉を思い出させるものがあるのだ。この冊子の中で、彼は次のような問いを出している。

神の掟が無効なものとなり、神の禁じておられることが合法的なものに変わるのに、どのくらいの人数が必要なのだろう。邪悪なものが、義なるものへと変質するのに、どのくらいの人数が必要なのだろう。

一人の人間は、人を殺してはならない。もし、そうしたなら、それは殺人行為になる。二人、十人、百人、、、と、いずれも各自の責任を担う形では、人を殺してはいけない。もし、そうするなら、それは依然として殺人行為となる。

しかし、政府ないし国家は、お好きなだけ何人でも殺していいのであり、それは殺人ではないのだ。それにはただ、立派な大義名分が必要なだけだ。それなりに十分な数の人を集めて、賛同させればそれでよし。そうすれば、無数の人間の虐殺も、完全に無罪潔白なものとなる。でも、それにはどれくらいの人数が必要なのだろう。それが問題だ。

盗み、強奪、不法侵入、その他全ての犯罪についても、全く同じことが言える。誘拐は、一人の人ないし数人の人によってなされるなら、重大な犯罪である。しかし、国全体としては、それをやってもいいのだ。

さらに、その行為は、ただ単に無罪とみなされるだけでなく、非常に栄誉ある行為となる。だから、国全体としては、大規模な形で略奪をはたらき、軍事力でもって、町全体に不法侵入しても構わないのである。それは犯罪ではないのだから。

また、彼らは、刑事責任を問われることもなく、これら全てを遂行することができるのだ。それでもって、宗教をつかさどる牧師先生方に祈りをお願いしている。まことに、数というものには魔力があるのだ!

少なくとも、至高の多数派は――少なくとも自身の慢心において――全能の主を差し置いても、法を制定できるのである。でも、それにはどのくらいの人数が必要なのだろう。



もし、国家が私に、偶像を拝むように命じるなら、それは正当化されるのだろうか。

換言すれば、私が個人として偶像を拝むことは間違っているけれども、国家の権威の下に偶像を拝むなら、それは完全に正当化されるということだろうか。

個人として占いをすることはダメだけれど、国家のお墨付きがあれば、やっても構わないのだろうか。

個人としては姦淫を犯すことはご法度だけど、もし、国家が私にそうしろと命じたら、それは罪ではなくなるのだろうか。個人としては、離婚をしてはいけない。でも、自分の配偶者を離縁することを国家が公認するなら、それは完全に合法的なものになるのだろうか。

また、某国にあるクリスチャンが住んでいるとする。この国では、政府が国家扶助政策の一環として、女性に中絶を義務づけているのである。

おそらくこの国は人口過密問題を抱えているのかもしれない。そして、この人口問題を解決する最も適切な手段として、政府は、出生率を減らすことを考えたのかもしれない。

でもそれで、キリスト者の女性が、中絶によって胎児を殺すことが合法的なものとなるのだろうか。

もし、そうでないなら、なぜ同じ政府が戦争で人を殺すよう命じること――こちらは合法的なものとみなされ、中絶などとは別扱いになるのだろう。

☆☆

イエスが「無抵抗」ならびに「敵を愛すること」に関する掟を授けられた時、主は、個人としての行為と、国家の後押しを受けた国事行為との間に、なにか区別を設けていただろうか。いや、そういう区別は全くされなかった。

実際、主の教えは、旧約の律法に取り替わるものであり、そういった旧約の律法自体、私的なものではなく、国家的な行為に関連するものであったのだ。覚えておられると思うが、イエスは、無抵抗に関するメッセージを次の言葉をもって始められた。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。マタイ5:38、39a



イエスの聴衆者たちは、どこでこの「目には目を、歯には歯を」を聞いていたのか。そう、彼らはモーセ律法の中で、これを聞いていたのである。実際、この言葉は、律法の中に、三回出てきている。

この表現が出てくる最初の箇所は、出エジプト記にある。

もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足。出エ21:22-24



ここで注意していただきたいのは、裁判人がこの行為に関わっていたということである。これは、個人的な報復行為ではなかったのだ。

二番目の箇所は、レビ記の中にみられる。ここでは、エジプト人の父とイスラエル人の母を持つ男が神の御名を冒涜したことに関した事が取り上げられている。イスラエルの民が、この件に関して、自分たちはどうすべきかを主に伺ったところ、神はこう答えられた。

主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない、、、だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない、、、もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされなければならない。すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない、、、

モーセがイスラエルの人々に向かい、「あの、のろいごとを言った者を宿営の外に引き出し、石で撃て」と命じたので、イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたようにした。レビ24:16-23



この箇所は、個人的な行為に関して何か語っているだろうか。否!である。イスラエルの全会衆がこの処罰執行に関わったのだ。

最後の箇所は申命記である。

もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。 あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。申命記19:16-21



ここでも、この箇所は個人的な形での応報のことは言っていない。祭司も裁判人共々にこれに関わっていたのである。

だから無抵抗に関するイエスの教えの文脈は国家的ないし司法上の懲罰に関するものであって、個人的な報復のことを言っているのではないのだ。結局、これこそ「『目には目を』の基準」の意味するところなのである。そしてイエスの教えはこの基準に取り替わるものとなったのだ。


ー抜粋おわりー


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