デイヴィッド・ベルソー著 『世界中をひっくり返した神の国』 
第9章より一部抜粋
 


*この記事は、前回の「『敵を愛しなさい』というイエスの御言葉は『私的な自分』には適用されても『公的な自分』には適用されない?(ココ)」の質問の続きです。

質問
でも、二足わらじを履くことはダメでしょうか。私が軍服を来て、アメリカ軍の一員である時、人を殺しているのは、という個人ではないのです。そう、それは私ではなく、「アメリカ合衆国政府」なのです。そしてアメリカ政府は、ローマ13章によれば、神から剣を委ねられています。



この議論が一見もっともらしく聞こえるのはどうしてかというと、ほとんどのクリスチャンが、神の国を、実在の政府として未だに認識できずにいるからである。

これを説明するために、例えば、1930年代のドイツに、あるアメリカ国民が住んでいたと仮定することにする。

さらに、ドイツ国軍が彼を徴兵したとしよう。(実際、政府には、非市民である外国人滞在者をも徴兵する権限があるのだ。)

このアメリカ人はドイツ軍に徴用されることに同意し、後に、第二次世界大戦での戦闘中、同胞のアメリカ人を殺したとする。さらに、最終的に、彼が米軍に捕えられ、戦争裁判にかけられたと仮定しよう。

この裁判において、彼が次のような抗弁をしたとする。

一介のアメリカ人として、私が自分の同胞市民と戦ったことは確かに悪いことです。しかし、私はあくまでドイツ軍に召集されたのであり、よって、他の米国人を殺したのは、もはや私という一米国市民ではないのです。それは、米国と合法的な交戦を交えたドイツ政府に他ならないのです。



米国民および米国政府は、こんな弁解を受け入れるだろうか。もちろん否である!それなのに、どうして私たちは、「イエス様に限っては、こういう弁解を受け入れてくださるだろう」と思っているのだろう。

実際、ここで説明した譬え話に似た状況が、最近(2003年当時)、現実に起こったのである。

数年前、米国はアフガニスタンのタリバーン政権に対し、戦争を始めた。戦争中、米国はタリバーン戦士として従軍していたジョン・ウォーカー・リンドという米国籍の男を逮捕した。さて、裁判の席で、リンド氏が次のような抗弁をしたとしよう。

一介の米国市民として、私、ジョン・ウォーカー・リンドは決して他の米国人に害を加えるようなことは致しません。確かに、私はタリバーン軍に加わりました。しかし、私が従軍した時には、タリバーンは、米国と戦争状態にはなかったのです。

その後私が取った行為に関して言いますと、それは私個人のものではなく――タリバーン政府の行為だったのです。個人的には、私は米国と戦ったわけじゃないんです。ただ、タリバーン政府の一員として戦ったにすぎないのです。それゆえ、私は無罪なのであります。



米国の陪審員は、この抗弁を受け入れるだろうか。いや、そんなことはないと思う。

無抵抗主義を受け入れないクリスチャンは、実際には、イエスがカイザルの膝元にひざまずくことを願っていることになるのである。

カイザルが人々に、イエスの掟を破るように要求した場合、イエスの方でどうか折れて出てくれるよう、人々は願っているのだ。しかし、カイザルは逆の事を進んでするだろうか。つまり、イエスの要求により、自分(カイザル)の法が犯されることになっても、それを私たちに許すだろうか。

この問いへの答えとして、例えば、このリンド氏がこのような抗弁をしたとしよう。

米国市民である私、ジョン・ウォーカー・リンドは、他の米国人に危害を加えるようなことは決していたしません。もちろん、そんな事は間違っています!アフガニスタンにいた時、米国に対して戦いを挑みましたが、私はそれを、純粋に、イスラム教徒であるジョン・ウォーカー・リンドとして行なったのであります。

私はアッラーに対して忠実なる者ですが、アッラーは、私に全ての異教徒(非イスラム教徒)を殺すよう命じておられるのです。ですから、イスラム教の信徒として、私は米国人を殺しました。しかし、私はこれを――個人としてではなく、一介の米国人としてでもなく――イスラムの国際的共同体の一員として行なったにすぎないのです。それゆえ、私は無罪なのであります。



どう思われるだろう。この抗弁は功を奏するだろうか。もちろん、なさない。アメリカ政府は、各自の宗教的信条にかかわらず、国民がお互いに殺し合うことを容認しないのだ。

もし、誰かが他の米国人を殺すなら、その人は殺人罪に問われるのである。宗教上そうすることを命じられたという事実は、言い訳として通用しないのだ。

このように自国政府は、宗教上の相違ゆえに、国民がお互いに殺戮し合うことを容認しないのである。

それなのにどうして私たちは――政府ないし国家的相違ゆえに、主の民がお互いに殺戮し合うことをイエスは許したもう――などと思っているのだろうか?









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