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全てのことは神のご裁量下にあり、「救い」ないし「死」の決定は主に属している。主は万事をご自身の意図に従って定め命じておられる。それゆえ、ある人々は、母の胎にいる時より確実な死に定められているのである。――そういった彼らの破滅により、主の御名に栄光が帰されるためである(that His name may be glorified in their destruction)。

John Allen, ed., Institutes of the Christian Religion. Ioannis Calvini Institutio Christianae religionis (Philadelphia: Presbyterian Board of Publication, 1841), p. 169, 私訳



これは本当なのでしょうか。Aさんという人は、母の胎にいる時から永遠の滅びに定められているので、たとえ彼女が、救いを求めて教会に行き、十字架の前で罪を悔い改め、祈っても、やっぱり滅びてしまうのでしょうか。

私は、カルヴァンの二重予定説の中の、この「永遠の滅び eternal damnation」の教えを未だに受け入れることができずにいます。

私は、カルヴァンのように「彼らの破滅により、主の御名に栄光が帰される。」と言うことができないのです。人が福音を受け入れず滅んでいくことは、神の栄光ではなく、むしろ神の御心に深い悲しみをもたらすものではないでしょうか。

でもカルヴァンにしても、カルヴァン主義を奉じる方々にしても、頭脳明晰な方々が多く、私は自分が二重予定説などを受け入れられないのは、とどのつまり自分に理解力が欠けているためなのではないかと疑い、葛藤していました。


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でも、下のような文章を読む時、「やっぱりダメだ。自分には受け入れられない。」と、その思いはまた波のように打ち寄せてきました。

予定説とは、――すべての人に関し主がご自身の望むように決定されたという――神の永遠の定め(decree)のことを意味している。

すべての人が同じ条件で造られたわけではない。ある人は永遠のいのちに予定(preordained)されており、また別のある人は、永遠の滅びに予定されている。従って、各人は、(永遠のいのちか永遠の滅びか)二つの終点のうちどちらかに行くよう創造されているのである。つまり、各人は、命ないしは死へと、それぞれ予定されているのである。」

John Calvin, Institutes of the Christian Religion3:21:5, 私訳

 

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聖書は明らかに証明している。すなわち、神は永遠にして不変のご計画により、次のことをはっきりとお定めになった。――ある人々を救いへと認める一方、他の人々を破滅へと定めるのが主のご意志であると。この選ばれた者に関するこの御計画は、人間の価値に関わりなく、ただ主の全き憐れみに基づくものである。

その一方、主が滅びに定めた人間は、――義にして欠点なく、かつ人知を超える神の裁きによって――命への接近から締め出されている

John Calvin, Institutes of the Christian Religion 3:21:7 私訳



先日、ある「穏健」カルヴァン主義者の方の書かれた記事を読みました。この方の説明の多くは、私にとって、参考になるものでした。私と同じような葛藤を抱えている方はお読みになってみてください。



カルヴァン主義は危険であろうか?
R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


IS CALVINISM DANGEROUS? by R. L. Hymers, Jr., M.Div., D.Min., Th.D., Litt.D.



ロサンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年7月22日、土曜日の晩に説かれた説教



すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。(マルコによる福音書第10章26‐27節)



インターネットで私の説教を読んだある人達は、私はカルヴァン主義者であると言っています。

彼らは、説教の中で私が過去のカルヴァン主義者達、たとえば18世紀の偉大な聖書注釈者であるジョン・ギル博士(Dr. John Gill)、『天路歴程』( Pilgrim’s Progress)の著者であるジョン・バニヤン(John Bunyan)、そして、特に「説教者のプリンス」と呼ばれるスポルジョン(C.H. Spurgeon)をしばしば引用していることを知っています。 


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John Bunyan

これらの三人はすべてバプテストでした。そして、三人とも神学上の立場は、完全なカルヴァン主義的なものでした。

私の説教を読んだ人達は、私はこれらの三人を大いに尊敬していることに気づきます。彼らはまた、私が高い尊敬の念を、英語圏でもっとも偉大な福音伝道者である、ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield)に抱いていることにも気づきます。 


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George Whitefield

ホイットフィールドは、ファイブ・ポイント・カルヴァン主義者でした。

また、私はよく草分け的な宣教師である、ウイリアム・ケアリー(William Carey)、アドニラム・ジャドソン(Adoniram Judson)、そして、ディビッド・リビングストン(David Livingstone)を引き合いにだしますが、彼らもファイブ・ポイント・カルヴァン主義者でした。

しかし、私はこれらの先駆者達、ならびに清教徒(彼らもまたカルヴァン主義者でした)をたいへん深く賞賛していますが、自分自身私はファイブ・ポイント・カルヴァン主義者であるとは思っていません。(ブログ管理人註:Five-point Calvinistとは、カルヴァンの主要5教理をすべて信じている人のこと)


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カルヴァンの5ポイント


私は、カルヴァン主義の最初と最後の教旨(ポイント)でカルヴァン主義を支持しますが、第二、第三、第四の教旨を全面的には支持しません。しかるに、私は「穏健カルヴァン主義者」とときには呼ばれています。

この立場をふまえ、私はカルヴァン主義の五つの教旨(ファイブ・ポイント)を上げ、どうして私は完全にはそれらの三つの教旨を支持しないかを簡単に述べてみたいと思います。 

英語の頭文字をとって、カルヴァン主義の五つの教旨をTULIPとしましょう。私の説明は、すべての人達に満足されるものではないと理解しています。事実、だれも好まないかもしれません! 

それはどうであれ、カルヴァン主義の基本的な中核を擁護する前に、TULIPについて自分の見解を述べるべきである、と私は思います。


1. 全堕落(Total depravity)  


この教旨は、完全に聖書に忠実であると私は思います。 

これは、改心していない人々は、「自分の罪過と罪とによって死んでいた」(エペソ人への手紙第2章1節)と教え、改心していない者は、「罪過によって死んでいた」(エペソ人への手紙第2章5節)のであり、そして彼らは、「彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ」(エペソ人への手紙第4章18節)ていると教えています。 

これらの聖書の言葉は、多くのものと同様、人は完全に堕落しており、罪に死んでいるがために、その堕落した状態では、神に応対することができないことを語っています。 

十二使徒がイエスに、「それでは、だれが救われることができるのだろう」と尋ねたとき、イエスは、「人にはできないが」(マルコによる福音書第10章27節)と答えられました。

しかるに、私はこの教旨-全堕落、に関して、完全にカルヴァン主義に同意します。私は、聖書の中で述べられるこの教旨は、真実の、人の状態である、と信じます。


2. 絶対的選び(Unconditional election)  


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このカルヴァン主義の教旨を、私は信じません。

選びは、誰が改心するかの神の予知によるものである、と私は確信します。良かれ悪しかれ、罪人は「父なる神の予知されたところによって選ばれ」(ペテロへの第一の手紙第1章2節)ると私は信じます。 

私は、誰が福音に応じ、キリストに来て救われのかを神は前もって知っており、その者達を神は事前に選ばれる(救いに選ばれる)、と信じます。 

第二の教旨に関する私の見解は、厳格なカルヴァン主義者にとっては、私は「アルミニウス主義者(Arminian)」のように映るかもしれません。 

しかし、私はアルミニウス主義者の堕落に関する見解に同意はしません。人は病気ではありません。人は死んでいるのです。 

人は、不相応の神の恩恵から離れて、救いの望みを持ち合わせている、と私は思いません。

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、・・・わたしたちは救われたのである。」(テトスへの手紙第3章5節) 



ですから、私は絶対的選びの教旨を支持はしませんが、また、人はキリストへの従順のいかんによって選ばれる、というアルミニウス主義者の見解にも同意はしません。 

それは、「神人協力説(synergism)」の誤りであるのでしょう。神のみが改心における能動的な代行者であり、人は受動的であり、神のみにより人は改心される、とう事実は、神唯一説(monergism)と知られています。 

人は、わずかかもしれないが、何かを提供できる、という学説は、神人協力説と呼ばれています。福音に応答する、という意味は、神の恩恵に反対することを止めるという意味です。 

人は止めることはできますが、堕落した状態では、福音に応じることはできません。

人は「自分の罪過と罪とによって死んでいた」(エペソ人への手紙第2章1節)者であるのに、どうして、キリストに従うことができるのでしょうか?あるいは、自分の救いに何かを施すことができるのでしょうか?

 
3. 限定的贖い(Limited atonement) 


カルヴァン主義全体にあって、これはもっとも軟弱な教旨であると私は思います。


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限定的贖いの教理 


聖書は明白にこう語っています。 

「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(ヨハネの第一の手紙第2章2節) 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書第3章16節) 



カルヴァン主義者は、これらの節そして同様な節に対して、答えを持ち合わせていることを私は知っていますが、彼らの答えに納得したことはありません。 

カルヴァン主義的清教徒で説教者であり作者である、ジョン・グッドウィン(John Goodwin, 1593-1665)は、限定的贖いに反対する本、『贖いによる救い』 Redemption Redeemed: A Puritan Defence of Unlimited Atonement (Wipf and Stock Publishers, 2004 reprint)を書いています。 

彼の限定的贖いに反対する姿勢は、十分に読むに値するものです。私は、「神の恵みによって、すべての人のために死を[味わわれる]」(ヘブル人への手紙第2章9節)キリストを信じます。


4. 不可抗的な恵み(Irresistible grace) 


ルターは、意志の束縛を強く信じていました。事実、彼は、彼のもっとも重要な著書、意志の束縛( The Bondage of the Will)を残しています。 


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彼は、その人自身の不改心でいようとする意志の中では、決定する力、受ける力、そして救いの恵みに応じる力をもつ人は誰もいない、と言っています。 

しかし、ルターはまた、人はそれを拒否する力を持ち合わせている、と信じていました。これは、ルターとカルヴァン主義の主要な異なる点です。 

ルターは正しかったと思います。この点では、カルヴァン主義は誤りです。 

どうか私はルターが言ったすべてのことを支持すると勘違いをしないでください。私はもちろん支持をしません!しかし、これに関して彼は正しかったと思います。 

なぜある人は恵みを得、他の人は得ないのか、という質問に対して、ルターは単純に、それはミステリーであり、聖書では明らかにされていない、と述べています。 

私は、聖書はなぜこのことがあるのかを明らかにしていない、という彼の見解に同意しようと思います。それゆえ、私は不可抗的な恵み(Irresistible grace)を信じません。 

恵みは拒否されることができますが、生まれ変わっていない人々の意志によって、受けられたり、受諾されたりはできません。なぜなら、救いは神の働きだけによるからです。 

「それでは、だれが救われることができるのだろう」(マルコによる福音書第10章26節)。 

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコによる福音書第10章27節)。 



人は救いを拒否することができますが、神のみが救いを与えることができるのです。ルターは、「不信心者は神の意志を拒否する」と言いました。 

聖書は、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている」(使徒行伝第7章51節)と語っています。それゆえ、恵みは不可抗的なものではないのです。

(*ブログ管理人註:この記事の中では、Irresistible graceは「絶対的な恵み」と訳されていましたが、Irresistibleは「不可抗的」と訳す方が適切ではないかと思い、また一般の神学書の中でも、「不可抗的な恵み」と翻訳されているようですので、勝手ながらこの箇所を「絶対的」から「不可抗的」に変更いたしました。)


5. 神の選民の堅忍(Perseverance of the saints) 


これはカルヴァン主義の最後の教旨です。私は、心からこれを信じます。 

というのは、これは明らかに聖書に忠実であるからです。「御子を信じる者は永遠の命をもつ[現在形]」(ヨハネによる福音書第3章36節)。 

イエスはこう言われました。

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。 だから、彼らはいつまでも滅びることがない」(ヨハネによる福音書第10章27‐28節)。 



人が一旦永遠の命をもてば、その人からそれを取ることはできないし、あるいは、その人がそれを失うこともない。人が一旦本当に改心したのであれば、その人は、「不改心」いることができない。 

よって、私は真に改心した者の、カルヴァン主義的「永遠の確保」の教旨を全面的に信じます。

これが、「ミスター清教徒」と呼ばれたリチャード・バクスター(Richard Baxter, 1615-1691)が使った、「純粋キリスト教(mere Christianity)」が意味しているところなのだと思います。 


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Richard Baxter

「この見解は、彼を・・・カルヴァン主義とアルミニウス主義との仲介の地位に置くものである。」(Elgin S. Moyer, Ph.D., Who Was Who in Church History, Moody Press, 1974, p. 33) 

「バクスターが望んだものは、英語圏の宗教生活の中の極端主義者の間の仲介となることであった。」(J. D. Douglas and Philip W. Comfort, Who’s Who in Christian History, Tyndale House Publishers, 1992, p. 69) 

私は、カルヴァン主義の五つの教旨で、第二、第三、そして第四の教旨に関して、ルター、清教徒のジョン・グッドウィン、そしてリチャード・バクスターのそれぞれの見解にある同意をみました。
 
これで、私はアルミニウス主義者ということになるのでしょうか?現代の意味合いでは違います。 

現代のアルミニウス主義者は、全堕落、人からの何らの手助けがいらない恵みだけによる救い、に重きを置きません。そして、アルミニウス主義者は、ふつうには真に改心した者の永遠の確保についての聖書の教えを拒否します。

ある人は、実際には私は「穏健カルヴァン主義者」であると言っています。もちろん、私は超カルヴァン主義者ではありません。というのは、すべての人達への、率直な、救いの説教を信じるからです。 

ですから、よい言い方を望めば、私は「穏健カルヴァン主義者」なのでしょうか。というのは、「それでは、だれが救われることができるのだろう」という問いに対してのイエスの答えに、私は完全に同意するからです。 

イエスは正しかったのです。彼はこう言ったのです。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコによる福音書第10章26‐27節)。


(引用元:ココより一部抜粋)





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