「寛容」の新しい定義は、一貫性がないだけにとどまらず、それは矛盾をきたしており、実際、モダニズムの下に存在していた従来の「寛容」よりも、むしろよりいっそう寛容精神を欠くものであるということが実証されている。

なぜなら、新しい「寛容」は、それが最も同意したくない、まさにその点において、他のあらゆる論敵を「非寛容者」ないしは「偏狭者」として退けなければならず、従って、それは事実上の「全体主義 totalitarian」となっていくのである。

D・A・カーソン、「寛容」という「非寛容」



新しい「寛容」の「非寛容」な実態が、北欧ノルウェーですでに、以下のように現れてきています。四日前に報道された記事です。

クリスチャン・ポストのCP通信より(2015年12月31日)[ here]

ノルウェーの児童保護サービス機関は、ルーマニア人のペンテコステ派家庭のキリスト教信仰のあり方を懸念した後、11月にこの両親の元から5人の子供を引き離していましたが、現在、この機関は、5人の子供たちをそれぞれ養子に出す法的手続きを開始しています。

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Bodnariuファミリー

前回の記事で伝えた通り、2015年11月16日、マリウス(夫)およびルース(妻)・ボドゥナリウ家の五人の子供は、バーネヴェルネット(ノルウェーの児童保護サービス機関の名称)に身柄を引き渡されました。

これは、長女と次女の通う中学校の校長が、子供たちに対する両親のキリスト教教育や、両親が子供に、「神様は罪を罰する方です」と教えている事などを問題にした上で、それを児童保護機関に訴え出た結果、引き起こされました。

、、乳児を含めた五人の子供たちは現在、三つの別々の里親の元に出されており、両親は非常に限られた時間しか子供たちを訪問する権利が与えられていない状態にあります。

両親共に、週に二回、乳児の息子に会うことは許可されていますが、二人の息子たちに関しては、妻のルースが週に一回だけ、二人の娘に関しては、夫妻どちらにも訪問する権利が与えられていません。(後略)



新しい「寛容」が極限までおし進められていく時、それがやがて「全体主義体制」を生み出していくという、冒頭のカーソン氏の見解は、不気味な程に現実味を帯びてきています。

こうして反キリストが到来する道が着々と開かれていくのでしょう。

ヨハネの黙示録22章10-21節

またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。

不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。

わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。

いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。

わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。

御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。

この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アーメン、主イエスよ、きたりませ。











かしこい先生と三人のこどもたち―クリスチャンのこども向けのおはなし

十字架の前で