御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。黙示録22:17



信仰者A:でも、聖霊さま。なぜあなたはこの聖句の中で、「来てください。」とおっしゃっているのですか。

聖霊:それは、わたしが、誰でもいのちの水がほしい人々に、イエス・キリストの元に来てほしいと望んでいるからです。

:でも私の意見では、あなたは、そんな事をおっしゃる必要はないと思います。

:なぜですか?

:なぜとお尋ねになりますか。だって、聖霊さま。あなたが「来てください。」とおっしゃらなくたって、イエス・キリストの元に来るようあらかじめ予定されている人は、不可抗的な恵みによって「来るように」決定されているからです。

逆に、あらかじめ滅びに定められている人は、たといどんなにあなたや私が、「来てください」と嘆願したところで、どうせ来やしないんです。だって、永遠の昔からそうなるように定められているんですから。

ですから、私はなぜあなたが黙示録の最後の章で、「来てください」などとおっしゃったのか、腑に落ちないでいます。

:それはわたしが「ひとりでも滅びることを望まずすべての人が悔い改めに進むことを望んで」(Ⅱぺテロ3:9)いるからです。実に、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。

:ああ、聖霊さま。こういった聖句は、非常に難解で、私を苦しめます。

:どうして難解だと感じるのですか。

:それは、、、こういった聖句が、一見すると、福音の根幹と矛盾しているように見受けられるからです。

:「福音の根幹」とは何ですか?

:福音の根幹ですか?それは、宗教改革以来、敬虔なる神のしもべたちによって大切に保持されてきた主要教理のことです。つまりTULIPの五教理です。

私はチャールズ・スポルジョンを尊敬しています。そして、その彼が、「カルヴィニズムこそ福音であり、それ以外の何物でもない」と言っています。


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また、彼は「カルヴィニズムを否定することは、イエス・キリストの福音を否定することだ」とも言っています。


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また、かの有名な註解者B・B・ウォーフィールド(1851-1921)は、「福音主義は、カルヴィニズムが立つか倒れるかにかかっている、という事を世界はしかと知るべきである」と言い切っておられます。


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:スポルジョンやウォーフィールドが、あなたの最終的権威ですか?

:いいえ、、、そんな、、主よ、私の権威は、あなただけです。そうであるべきだし、それが「聖書のみ(Sola scriptura)」の真髄ではないでしょうか、、、、でも、ああ、、、

(ここでA、わっと泣き出す)

主よ、私は苦悶の中にいます。あなたは私がどんなに神を愛し、御言葉に敬意を払っているかをご存じです。

ウェストミンスター小教理問答集の第一項に「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」と書いてあるように、私の人生の目的は、ただひたすらに神の栄光をあらわすことです。

私はリベラリズムに抗し、福音の真理を守り抜きたいのです。しかるに、福音とは何でしょうか。それはカルヴィニズムなのです。TULIPの五教理なのです!そうではありませんか?

それを否定することは――スポルジョンも言っているように――福音自体を否定することになるのです、、、いえ、少なくとも私はそう聞いてきました。ですから、私は5ポイント・カルヴィニズムを死守しなければならないのです。

しかし、冒頭に挙げたような黙示録の聖句などを、一人部屋で読んでいる時など、私の心の中に、ふつふつと素朴な疑問が湧いてくることが多々ありました。

また、私の敬愛する アーサー・W・ピンクの、「神がご自身の愛を行使することにおいて、主権者であるという意味はこうである。つまり、神はご自身のお選びになった者こそを愛しているのであり、全ての人を愛しているのではないThe Sovereignty of God, p.17)」というような言説を聞く時、ふと素人心に、「神は愛ではないのでしょうか。そう聖書にも書いてないでしょうか」と不安がよぎったりしたものでした。

そんな時、私はジョナサン・エドワーズやジョン・バニヤンの著作を引っ張り出してきて読み、TULIP五教理の中に立派に生きた偉大なる信仰の先人たちの顔をあおぎながら、必死に内なる疑惑の声をもみ消そうと努力してきました。

しかし、あなたは、whosoever will, let him take the water of life freely(=誰であってもそれを意志する者は/それを望む者は、いのちの水をただで受けなさい。黙22:17b)とおっしゃいました。

ああ、なぜ、あなたはこんな事を言うのですか?

これでは、不可抗的な恵み、絶対的な選び、限定的な贖い、その他の教理にヒビが入ってしまうではないですか。折り合いがつかなくなってしまうではありませんか。それでは非常に困るのです。

しかし一方、私の内なる心は、あなたのこの御言葉に応答し、それを喜んでさえいます。

ええ、それを告白します。そして今、あなたに自分の気持ちを打ち明けながら、私の中で、我知らず、カルヴィニズムという教理が、一種の強迫観念になっていたことに気づかされました。

また、私は神の権威以上に、人の権威の前に跪いていたのかもしれません。その意味で、主よ、私は縛られています。私には自由がありません。

しかしあなたは、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)とおっしゃいました。

私はあなたの前に跪き、あなたに祈ります。どうか真理によって、私を自由にしてください。



ーおわりー








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