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どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって、それらが、私を連れて行きますように。詩篇43:3

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。イザヤ45:5




三谷隆正著 『問題の所在』より


絶望罪


もし神の大愛を以てしても、どうしても赦すことのできない罪があるとしたら、それは人が自分自身に絶望することであろう。

又もし人が神の国に迎え入れられることを絶対に妨げる障碍があるとしたら、その障碍は人が「自分自身に恃(たの)む」という事であろう。

我々は自分自身に絶望してはならない、決してならない。

然しまた同時に、我々は自分自身に恃んではならない、決してならない。

それならば、我々はどうすればいいのであるか。

自分自身に絶望しないでいて又同時に自分自身に恃まないでいる事が出来る事であるか。

自分自身に恃まないと共に、自分自身に絶望しないでいる事が出来る事であるか。

むしろ我々が自分自身に絶望し切った時、その時に、我々は真個に自恃自誇を棄て得るのではないか。

まず自己に絶望せよ。しかる後、自恃を去るを得べし。しかる後、真に謙遜なるを得べし。――かういう論法は、論理的には甚だ強力な論法である。

私は其処にある真理の存する事を否認するものでない。

然しもし実際に、我々が自分自身に絶望し切ったならば、その時、我々は真実謙遜な者になり得るかどうか。私はそれを省察したい。

☆☆

絶望は暗い淵である。

其処には光の片影さえない。冷たい堅い扉を光明に向けて、希望の一閃(いっせん)をさえもらし入れまいと守るのが、絶望の城廓である。

光明は天地に遍照して毛ほどのすき間、針の孔(あな)ほどの隙をものがさじと押し寄せて来る。

その光明の強襲を頑強に堅固に防御し、撃退するのが、絶望者の態度である。

己が城を渡さじと守るもの、ひた寄せによせ来る光明軍の前に、暗黒なる鉄扉を堅く閉ざして、一人をも入れじ、一歩も退かじと健闘するもの、それが絶望者である。

彼こそ最も頑強に自己に恃(たの)み、自己を守るものでないか。

その何処に謙遜があるか。

☆☆

我々が独り、静かなる時に、我々の犯した数々の過を省みる時、我々は殆ど耐えがたいまでの悲しさと恥ずかしさとを感ぜずには居られない。

もし我々が人の記憶からも、神の記憶からもいささかの痕跡もなしに消え去り得るものであるならば、そうやって隠れを了(はか)る事が出来るものならば、どんなにか気安い思いをするだろう。

然しそれでも我々は、我々自身の記憶からのがれ去る事ができない。

他人はたとい我が罪科を忘れ果ててくれようと、我自らの霊の痛みを如何にせん。

――かく思い悩む人の心にキリストの福音は何たる喜びの訪れであろう。

曰く「我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて来れり」と。


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それは余りに勿体(もったい)ない思召(おぼしめし)である、殆ど信ずるに難い恩恵である。

現に幾多の人が信ずるに難しとした所であった。然し我らの救済は、是以外にない。

神は、われらの犯す如何なる罪を赦し給うとも、この福音を拒斥する事、さうして自己に絶望する事だけは、決して赦し給わぬであろう。

もし人は各々絶対の主人であって、各自は各自の絶対的所有物であるならば、我々が自分に絶望すると否とは、我々の自由の権利であるかも知れない。

然しもしが我々を造り、我々をしろし給ふものであるならば、神の我らをすて給はざる前に、我ら自ら我らを捨て去るとは、己を塵芥(じんかい)に委するという事でない。

己自ら己の主人たらんとするの野望を捨てて、神の前に己を返還せよとの謂である。

己を塵埃視し、糞土視する事、さうやってむやみと己一個をけなしつける事が謙遜なのでない。

自己に対する自己主権を放棄して、神の前に自己を奉献する事、何事にも自意を主とせずして、一切を神の大御心に委ねまつること、ただ神に於いてのみ誇り、又恃む事、それが真の謙遜である。

故に、うなだれた首が謙遜のしるしでない。

小児の如くに快濶に、小鳥のごとくに喜べる、晴々と暢々(のびのび)した心こそ謙遜なる人の心である。

☆☆

たとい世の人はこぞって我を侮辱しようと、もし私自らが私を侮辱しない限りは私の品位は少しも傷つけられない。

之に反して、千万人が私を尊敬しようとも、私自らが私を尊敬する事を得ないならば、他よりの尊敬は徒(いたづ)らに、私を苦ましむる因たるに過ぎない。

而して、たとい全世界の人がこぞって私を棄て去ろうと、もし私自ら私を棄てないならば、私を棄てざるものが猶二人ある。神と私と。

只一人恋人の彼を棄てざりしが為めに、世をこぞりて彼を棄てたるにも拘らず、終に自己に絶望する事を得ざりし人があった。

況や(いわんや)、神、我を棄て給はざるに、何を早まって、我自らを棄てようぞ。

さうして神は決して人を棄て給わない。一人をも棄て給わない。

それがキリストの福音である。

人の犯し得る最大の罪は、自分自身に絶望する事である。

一番悪魔的な事は、絶望することである。



ー終わりー
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光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。

父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネ1:5、14



祈り)
まことの光であられるイエス様、今、このブログを読んでいる方の中で、絶望の淵にいて苦しんでいる朋友のために祈ります。どうか、その方の魂にあなたが今、光を照らしてください。イエスがキリストであり、魂の永遠の希望であることを、その方に啓示してください。その方を絶望の淵からあなたの御胸の中に引き上げてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。





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