A・W・トーザー 『聖なる方を知る知識』Knowledge Of The Holy)の第22章「神の主権(The Sovereignty of God)」を翻訳いたしました。

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スイス・アルプス


神の主権
(The Sovereignty of God )



万軍の主なる神、いと高く、恐るべき方、誰か汝を畏れない人はいるでしょうか。

なぜなら、汝だけが主であられるからです。

汝は天と天にあるものすべて、地とそこに存在するものすべてをお造りになり、

汝の御手の内に、生きとし生けるものの命はあります。

汝は洪水の上に座し、みくらに座して、とこしえに王であられます。汝は全地を治める偉大なる王です。

汝は御力を身にまとい、誉と威厳とは汝の御前にあります。アーメン。



神の主権とは、ご自身の全ての被造物を神が統治しておられるという属性のことを言います。

そして主権を持つには、神は全知全能にして、絶対的に自由でなければなりません。なぜでしょうか。

以下、その理由を挙げることにします。

☆☆

どんなに些細な知識であっても、それが神の知られざるところにあるとしたら、その時点で、神のご支配は破城をきたしてしまいます。

なぜなら、あらゆる被造物を治める主であるためには、主は全ての知識を持しておられる必要があるからです。

また、神がほんの微量でも力に欠けているとするなら、その欠如は主のご統治にピリオドを打ち、主の御国を無効にしてしまいます。

そしてごくごく微小な力が神以外の誰かに属しているとするなら、その時点で、神は有限な統治者となり、従って主権を持たないということになってしまいます。

さらに、神の主権は、主が絶対的に自由でなければならないということを意味してもいます。

つまり、主は、妨げられることなく、あらゆる詳細な点において、ご自身の永遠の目的を達成されるべく、いつでも、どこであっても、ご自身のなさりたいことを遂行する自由があるということです。

その自由が欠如しているなら、神は主権を持つ方でなくなってしまいます。

こういった無制限の自由という概念を把握するには、相当な思考の努力を要します。

というのも、私たちは――その不完全な形におけるもの以外に――そういった自由を理解するようには、心理学的に条件づけられていないからです。

それについての私たちの概念は、絶対的な自由が存在しない世界の中で形作られてきたものです。

この世界においては、それぞれの自然物は他の多くの物体に依存しており、そしてその依存性によって、自由は制限されているのです。


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ワーズワースは、『序曲』の冒頭のところで、これまで長く幽閉されていた街から脱出し、「今や、自由に、鳥のように自由に、わが思うままに住みつくことができる」と歓喜しています。

しかし、鳥の持つ自由とは、全く自由ではないのです。

博物学者が周知のとおり、一見、自由にみえる鳥というのは、実際には、その全生涯を、恐れ、飢え、本能から成り立つ檻の中で過ごしているのです。

彼らの自由は、気候条件、さまざまな気圧、各地の食料事情、肉食動物などにより制限されています。

そしてあらゆる束縛の中でも最も奇妙なものとして――彼らは鳥の王国の協定によって定められし狭いテリトリー内にとどまるよう――不可抗的強制力により自由を制限されています。

もっとも自由な鳥であっても、他の全ての被造物と同様、必要性という網による、絶え間ない監理下に置かれています。ただ唯一、神だけが自由なる方なのです。

☆☆

神が絶対的に自由なる方だと言われるのは、何者も、どんな物も神を妨害したり、強制したり、差し止めたりすることができないからです。

主は常に、どこであっても、そして永遠に、ご自身の望むところを為すことのできる御方です。

そのように自由であるためにはまた、主は普遍的権威を持していなくてはなりません。御言葉や、主の他の属性などから分かるように、主は無制限なる力をお持ちです。

では、主の権威とはいったい何なのでしょうか。

しかし、そもそも全能なる神の権威について議論しようとする事自体、ある意味、無意味なことであり、それに対して異議を唱えることは荒唐無稽なことと言わざるを得ないでしょう。

万軍の主なる神が、誰かに許可を求めたり、より権威のある存在に訴え出たりするような必要性があるなどと想像できますか。

神は誰の所へ認可を得るべく行けばいいのでしょう。いと高き方より高い方がどこに存在するのでしょう。

全能の方以上に強い存在などいったいどこに在るのでしょう。永遠なる方に先行するものが存在するのでしょうか。

どの王座に向かって、神は跪くというのでしょうか。

神がお伺いを立てに行くような、より偉大な方など、どこに存在するのでしょう。

「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。』」(イザ44:6)



☆☆

神の主権は、聖書の中で明確に述べられている事実であり、真理の論理によっても声高に宣言されているものです。

しかしそうは言っても、これは、未だに満足のいく解答の与えられていないある種の問題を提起しています。

その問題とは、大きく分けて次の二つあります。

第一に、それは、被造物の中における――悪、痛み、死といった――神の是認しておられないものの存在についてです。

もし神が至上の方なら、そういった物が存在するのを前もって防ぐことができたはずではないでしょうか。なぜ神はそうなさらなかったのでしょうか。

☆☆

ゾロアスター教という――聖書的啓典宗教に属さないものの中では最も高尚な宗教――の経典『アヴェスター』は、この難題を、神学的二元論を打ち出すことで打開しようとしました。

この宗教によれば、この世界にはアフラ・マズダーとアフリマンという二神が存在しており、この二神によって世界は創造されたのだとされています。


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(右側がアフラ・マズダー、3世紀)


善神アフラ・マズダーが、あらゆる善きものを造り、悪神アフリマンが残りのものを造ったのだと。とてもシンプルな説明です。

ですから、アフラ・マズダーは、自分の主権の有無について悩む必要はなく、自分の大権を悪神と共有することに関しても、そこにこだわりはなかったようです。

☆☆

しかしクリスチャンにとっては、この説明は意味をなしません。

というのも、これは聖書全体を通し断固として提示されている真理と明らかに矛盾しているからです。

聖書においては、神は唯一であり、この方だけが天と地、そしてそこに存在する万物をお造りになったのです。こうした神の属性ゆえ、他の神の存在というのはあり得ないわけです。

確かに、「なぜ悪の存在が許されているのか?」という問いに対し、クリスチャンは自分たちが最終的な答えを持っていないことを認めています。

しかし、少なくとも、クリスチャンは何がその答えでないのかという点については知っており、『アヴェスター』のような経典にもその答えはないということを私たちは知っているのです。

☆☆


罪の起源についての完璧な説明というのはできないかもしれませんが、幾つかの点においては少なくとも、私たちはその理由を知っています。

至高なる知恵の中で、神は、ご自身の被造界の限られた領域内でのみ悪をお許しになっておられるのです。

それはたとえて言えば、活動が一時的にしか過ぎず、範囲においても限られている逃亡犯の如くあります。

これを遂行するにあたり、神はご自身の無限なる知恵と善に従い行動を起こしておられます。現時点においては誰もそれ以上のことは知りません。そしてそれを知る必要もないのです。

神の御名こそ、ご自身のみわざの完成を保証するに十分なものなのです。



(その2につづきます。)





「神の主権」――A・W・トーザー著 『聖なる方を知る知識』 第22章 (後篇)

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