A・W・トーザー 『聖なる方を知る知識』Knowledge Of The Holy)の第22章「神の主権(The Sovereignty of God)」の後篇です。

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山頂にて source

(前回のつづき)


さて、神の主権という教理によって引き起こされるもう一つの深刻な問題は、人間の意志をどう扱うかという点にあります。

もし神が、ご自身の絶対主権に基づく掟によって、宇宙を支配しておられるのだとしたら、「人間の自由選択というのは不可能」ということになってしまわないでしょうか。

そしてもし、人間に選択の自由が与えられていないのなら、一体いかにして、その人は自分の行為の責任を負えるというのでしょう。

そういう人間は結局、単なる「操り人形」――舞台裏で、心もおもむくままに糸を引いておられる神によって、その行動を決定づけられている――ということになってしまわないでしょうか。

☆☆

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こういった問いに答えを出そうとする試みが、これまでキリスト教会を二陣営に分かつ結果をもたらしてきました。そして、両陣営は、二人の代表的神学者、ヤコブ・アルミニウスとジャン・カルヴァンの名を取ってそれぞれ「アルミニウス主義」、「カルヴァン主義」と呼ばれています。

大半のクリスチャンは、どちらかの陣営に収まることで、それなりに満足しており、「神の主権」を否定するか、あるいは人間に対する「自由意志」を否定するかしています。


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しかし、私は思うのです。片方を侵すことなく、この二つの立場を和解させることが可能ではないかと。もちろん、これから述べる私の説明は、どちらかの立場の熱心な支持者にとっては、所詮、不完全な代物に過ぎないでしょう。

☆☆

以下が私の個人的見解です。神は、「人間が自由に倫理的選択をすることができるよう」主権を持って、これをお定めになりました。

そして人間は創造のはじめより、善と悪の間にあって自分でそれを選択することを通し、その定めを遂行してきました。

従って、人が「悪を行なうことを選択する」時、その人は、神の絶対的な意志を減殺している訳ではなく、あくまでそれを遂行しているのです。

永遠の掟は、人がどちらの選択をするかについては決定を下さず、むしろ人がそれを自由に選択できるように取り計らっているものだからです。

もし神がご自身の絶対的な自由の下に、「人間に対して、制限付きの自由を与えよう」とお望みになったのだとすれば、誰が、その主の御手をつかんで、「あなたは一体何をしているのですか?」と諫めることなどできましょう。

人間の意志は自由です。なぜなら、神が絶対主権を持った方だからです。

絶対主権を持たない神であったならば、ご自身の被造物に、倫理的自由を与えることはできなかったはずです。然り、そういう事は怖くてできなかったはずです。

☆☆

ここで理解しやすいように、身近な例を出してみることにします。

ある遠洋定期船があって、この船がニューヨークを発ちリバプールに向けて出港しました。

船の行き先は、しかるべき権威によって決定されています。それに対し何者も変更を加えることはできません。これがおぼろげながらも、私が描き出そうとしている「神の主権」像です。


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また船内には何百人という船客がいます。彼らは鎖につながれてはおらず、また彼らの行動が掟(decree)によって決定されている訳でもありません。

どこでどのように行動しようとそれは一切彼らの自由です。食べたり、寝たり、遊んだり、デッキをぶらぶらしたり、読書したり、おしゃべりしたり、、と彼らは好きなように行動しています。

しかしそうこうしている間にも、巨大な定期船は、着実に――事前に決定されている――港へと船客を運んでいるのです。

ここには「自由」と「主権」と、その双方が存在しており、両者は互いに矛盾していません

そしてこれが、「人間の自由」と「神の主権」を表しているのではないかと私は考えているのです。

強大な定期船に表される「神の絶対主権」に基づく主の御計画というのは、歴史という海の上を、一定の航路を保ち進んでいます。

神は、――世界の始まる前よりキリスト・イエスにあって計画されていた――永遠のご目的の成就に向け、妨害されることなく、阻止されることもなく、進んで行っています。

私たちは、そういったご目的の全容については知りませんが、少なくとも、今後起こるであろう事についての大まかな概観、未来の事に関する希望と揺るがない確信を持つに足りるだけの啓示は与えられています。

また神が預言者たちにお与えになった御約束はことごとく成就するということ、やがて罪びとは地から断たれるということ、贖われた民が神の喜びの内に入り、義とされた者が御父の王国で太陽のように輝くということを私たちは知っています。

さらに、神の完璧なご計画は、未だ普遍的には受け入れられていないけれども、やがて全ての被造物が主イエス・キリストゆえに御父に栄光を帰する時が来ること、そして現在の不完全な秩序は崩れ、やがて新しい天と地がとこしえまで打ち建てられることを私たちは知っています。


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そしてこれら全ての事の成就に向け、神は無限の知恵と完璧にして精密な行動をもって、働き続けておられます。

誰も主のご目的遂行をとどめることはできず、ご計画を逸脱させることもできません。主は全知の方ですから、不測の事態とか出来事というのは存在しえない訳です。

また主は主権者であられるゆえ、撤回された定めや掟というものはそこには存在せず、権力失墜という事態も起こり得ません。

そして全能の神として、主はご自身の選んだ目的を達成するに当たり、その力に欠くということもあり得ません。

こういった全ての事について、神はご自身において充足しておられるのです。

☆☆

しかし現実には、このような概略では説明できない事が多々あります。

不法の秘密はすでに働いています。そして、神の至高なる、許容されたご意志という広大な領域内で、善と悪の間の死闘が、さらなる勢いを増しつつ怒涛のように繰り広げられています。

つむじ風と嵐の中にあっても、神は依然としてご自身の道を貫徹していかれますが、今ここに嵐とつむじ風があるというのは紛れもない事実です。

そして私たちは責任を負うべき存在として、現在の倫理的状況の中で、自身の選択を選び取っていかなければなりません

☆☆

ある種の事柄は、神の自由な裁量によって定められていますが、その中の一つが、「選択とそれに伴う結果」の法則です。

誰であれ、信仰の従順により御子イエス・キリストに対し、自ら進んで自身を明け渡す人は、永遠のいのちを得、神の子となる、ということを神はお定めになりました。

また、誰であれ、暗闇を愛し、天のいと高き権威に対し刃向かい続ける人は、霊的に失われた状態にとどまり、ついには永遠の死に至るということも、神はお定めになったのです。

こういった一連のことを、個別的な言葉に置き換えてみると、私たちはここで非常に大切な個的結論に至るだろうと思います。

つまり、現在、周囲で荒れ狂っている倫理的確執のさなかにあって、誰であれ神の側につく人が勝ち組であり、負けることはあり得ないということ。

同時に、誰であれ、それとは反対の側につく人は負け組であり、勝つことはあり得ないということを。

ここにおいて偶然とか賭けとかは存在しません。どちらの側につくかについて私たちにはこれを選択する自由が与えられていますが、いったんその選択がなされたなら、その選択の結果についてあれこれ交渉するという自由は私たちに与えられていません。

神の憐れみによって、私たちは自分たちの犯した負の選択について悔い改め、正しい選択をし直すことによってその(負の)結果に変更をもたらすことがあるいはできるかもしれません。しかしそれ以上のことは私たちにはできません。

☆☆

倫理的選択をめぐる全ての問題は、イエス・キリストを中心に回っています

キリストはこの点に関し、次のように明言しておられます。「わたしの味方でない者は、わたしに逆らう者であり」(マタイ12:30a)、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)。

福音のメッセージには次の三つの明確な要素が包含されています。――1)宣べ伝え、2)命令、3)召し、です。

福音の使信は、1)憐れみのうちに成就された贖いの良い知らせを宣べ伝え、2)どこにいる人であれ全ての人に対し悔い改めるよう命じ、3)イエス・キリストを主として救い主として信じることにより、恵みの関係に自らを明け渡すよう、万人に対して呼びかけているのです。

私たちは皆それぞれが、この福音に従うのか、それとも不信仰の内に福音に背を向け、その権威を退けるのか、どちらかを選択しなければなりません。

そういった私たちの選択は自分たち自身に属するものですが、その選択の結果というのは、神の至高の意志によってすでに決められており、これに対しては何者も逆らうことはできません。


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主は、いと高き天より降りて来られた。
空の暗闇をその足の下にして。

主は荘厳に、ケルビムとセラピムに乗られ
風の翼に乗って飛びかけられた。

主は洪水の上に座し、
その猛威をしずめられる。
そして主権者なる主であり王であるこの神が
とこしえまでも統べ治められる。
 
 トーマス・スターンホールド





―終わり―

A.W.Tozer, Knowledge Of The Holy, chapter 22, The Sovereignty of God, 私訳









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遠い、遠い、ロシアの地で

「神の主権」――A・W・トーザー著 『聖なる方を知る知識』 第22章 (前篇)

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