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主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
詩篇127:1



二羽のすずめは、一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。また、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。マタイ10:29-31



わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。ヨハネ10:29



はじめに


今日は、みなさんとご一緒に、「初代クリスチャンが、神の主権についてどのように考えていたのか?」という事についてみていきたいと思います。

神の主権と人間の意志というテーマは、5世紀のアウグスティヌス・ペラギウス論争以来、今日に至るまでクリスチャンの間で延々と議論されている問題です。私が葛藤している「二重予定説」の教義も、このテーマに直結しています。

一般に論争というのは、私たちが論敵を打ち負かし、説得しようとする過程で、自らも気づかないうちに、(論争以前に存在していた)中立的な立場からやや極端な方へ逸れていくという危険性を常に持っていると思います。

例えば私も、このブログの中で、「相補主義」と「対等主義」のことについて書いていますが、自分が最も恐れ、また常に警戒している点がこの「極端化」です。

聖霊派の行き過ぎを警告し、論駁していたジョン・マッカーサー師が、その過程で、ご自身、「終焉説」という結論に行き着かれたという事実からも、この「極端化」が、まじめな信仰者誰にでも起こり得る現象なのではないかと私は思っています。(主よ、どうか私たちを助けてください!)

初代クリスチャンも、私たちと同様、誤りを犯す可能性を持った被造物に過ぎませんし、彼らの言葉は所詮、人間の言葉です。

しかし、アウグスティヌス・ペラギウス論争以後、西洋教会のドグマとして固定化していった「神の主権と人間の意志」――これに関する複雑な教義やもろもろの信条が作り出される「以前」に、クリスチャンたちがこのテーマについてどのように考えていたのかを知るのは、非常に有益なのではないかと思います。

なぜなら、彼らには、いわゆる「教義フィルター」がないので、このテーマに関して何を言おうと、ある意味、「自由」だし「気楽」だからです。やれ4ポイント・カルヴィニズムとか、半ペラギウス主義とか、アルミニウス主義とか、、そういうレッテルを貼られる重圧から全く自由にのびのびと、彼らは自分たちの信仰を言い表すことができていると思います。

この記事では、「神の主権と摂理」について初代クリスチャンたちがどのように考えていたのか、これから引用文を挙げていこうと思います。引用文の前後の文脈をお読みになりたい方は、Christian Classic Ethereal Libraryの中に収録されているPhilip Schaff編 Ante-Nicene Fathersをご参照ください。訳はすべて個人訳です。


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あなたに起こる全てのことを祝福と受け取りなさい。なぜなら、何ものも神を離れて起こることはないからである。

ディダケー(AD80-140)Ante-Nicene Fathers Vol.7.p.378



全ての殉教は、祝福された、崇高なものであり、神のみこころに従い起こるのである。

Martyrdom of Polycarp(AD135)、ANF 1.39



これまでに造られ、そして今後造られるであろうものの内で、何一つとして神の知識の目から逃れ出ているものはない。然り、主の摂理により、万事は、その性質、地位、数量、特質などをおのおの付与されているのである。従って、何ものも無駄には造られておらず、偶然に生じたものもない。全ては正確な適合性および超越的な神の知識により創造されているのだ。

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.398



神は人間だけでなく、サタンをも統治している。事実、御父の許しがなければ、すずめ一羽も地に落ちることはないのである。

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.551



全宇宙の主のみこころなしには、何事も起こり得ない。だからあのような事も、神の差し止めなしに起こるのだと言わなければならない。そうしてこそ、摂理も神の善も保たれるからである。しかし、主が積極的に災難を作り出していると考えてはならない、、そうではなく、そういった災難を起こす者たちを差し止めてはおられない、と考えるべきだ。にもかかわらず、主は、ご自身の敵によって引き起こされた犯罪さえも、(やがて)益となるようくつがえし、ご支配されるのである。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.424



病気、事故、そして、、死なども霊的な人に降りかかる。、、しかしそれらは神の御力によって救いの医薬となるのだ。こうした訓練により、改革(改善)の難しい人々は益を受ける。従って、こういったものは、神の摂理により、ふさわしいと判断されたものに応じて各人に分与されるのである。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.540



だから、霊的な人は、自分に起こるどんな事であっても、それらに動揺させられない。そしてそういった出来事が、主のご采配により、やがて益とされるということに対し疑いを抱かないのである。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.547



ある出来事は、神のみこころを示しているように思われる。――それらが主によって許されているという事を見るからだ。しかし、主に許されて起こった全てのことが、それをお許しになった神の絶対的なみこころであったとは、必ずしも断じることができないと思う。

テルトリアヌス(AD212)、ANF 4.51



私は彼を慰め、言った。「あの断頭台では、何であれ神様のみこころが行なわれる。知っておいてほしい。私たちは自分自身の力の内にではなく、神の御力の内に置かれているのだということを。」

Passion of Perpetua and Felicitas(AD205)、ANF 3.701



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〔復活の後〕、人は、神の摂理による采配が、各個人の上にも及んでいることを悟るようになるのだ。そして人の身に起こる出来事のうち、偶然に生じたものは何一つなく、それらは非常に注意深く配慮された主のご計画に基づいており、髪の毛の数さえも数えられているほど配慮が行き届いているのである。そしてこれは聖徒だけでなく、全ての人間に当てはまる。

オリゲネス(AD225)、ANF 4.299



、、この世界で起こる全ての出来事は、ある種、中間的な種類のものとして考えられ――それらが憂うべき悲惨なものであれ、その他のものであれ――神に「よって」(<神のせいで)引き起こされたものではないのだ。かといって、主の許しなしには起こらない。というのも、主は悪事を引き起こそうと目論んでいる邪悪な敵対勢力を差し止めておられないだけでなく、それらが起こるのを許してさえおられるからだ。、、従って、聖書は、私たちが全ての出来事を、あたかもそれが神から送られてきたかのごとく受け取るよう教えているのである。――主なしには、何事も起こり得ないのだから。

オリゲネス(AD225)、ANF 4.334



神は各個人に、自由意志を付与しておられると言わなければならない。しかし場合によって主は、この世の統治のために、邪悪な人間の悪をも用いられるかもしれない、、しかし、そういう場合であったにしろ、そのような邪悪な個人は神の刑罰を受けるに値するのである。

オリゲネス(AD248)、ANF 4.528



「このような無尽蔵の神の摂理は、ごく些細なことには及ばないだろう」などと考えてはいけない。なぜなら主はこう仰せられた。『二羽のすずめは、一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。また、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。』主のご配慮と摂理により、イスラエルの民の着物でさえも擦り切れるようにはなさらなかったのである。

ノヴァティアヌス(AD235)、ANF 5.617



主が、これらの出来事が起こるのをお許しになったのには理由がある。それは私たちの信仰が試されるためである。

キプリアヌス(AD250)、ANF 5.355



「私たちを試みに会わせないでください。」この聖句から分かるのが、神がまずそれをお許しにならない限り、敵対者は私たちに対して何ら危害を加えることはできないということである。だから、私たちの恐れ、献身、従順などはことごとく主に向けられ、主に持っていくべきなのだ。試練のさなかにあっても、主より力が付与されない限り、何物も悪を働くことはできない。

キプリアヌス(AD250)、ANF 5.454



神の摂理と御力を離れては、自然というのは、全く無きに等しい。しかし、もし人々が神を「自然」と呼び始めるのならば、それはなんという倒錯であろうか!

ラクタンティウス(AD304-313)、ANF 7.97



至高なる御父が、創造のはじめより、キリストにあって成就されるべき全てのことを定めてくださった。

ラクタンティウス(AD304-313)、ANF 7.127





ー以上ですー





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