罰や懲らしめ、そして報いは、各人の行ないの真価にしたがって与えられるということを私たちは、預言者たちから学び、そしてそれが真実であるとみなしている。もし、そうでなく、万事が運命のなすところであるならば、私たちの側でできることは、何もないという事になってしまう。というのも、もし、ある人が善良で、別の人は邪悪ということが予定されてpredestined)いるのだとしたら、その場合、前者は賞賛に値しないし、後者を責めることだってできないではないか。

自由な選択によって悪を避け、善を選ぶ力がない限り、人間に、自らの行ない――それがどんな行ないであっても――に対する責任はない。なぜなら、もし、その人自身が善を選ぶのではなく、ただ、そうするように(神に)造られただけのことであったら、彼は報いや賞賛を受けるに値しないからである



今日はみなさんにクイズを出したいと思います。さて、上の発言は誰によってなされたものでしょう?

1)ヤコブ・アルミニウス
2)ジョン・ウェスレー
3)チャールズ・フィニー

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答えの用意はできましたか?どこからどう見ても、「非」カルヴァン主義的発言ですよね?ルター的でもないですよね?「人間の自由意志に関して、こんな事を大胆に言ってのける人は、やっぱり、アルミニウス主義者を除いて、他に誰がいるだろう?」と、たいがいのクリスチャンは思うかもしれません。

ところが、です。この人はアルミニウス主義者ではないのです。さらに言うなら、ヤコブ・アルミニウスでも、ジョン・ウェスレーでも、チャールズ・フィニーでもないのです!

そうなんです。驚かれるかもしれませんが、なんとこれは初代クリスチャンの発言なんです。上記の文章は、殉教者ユスティノス(110-165)の『第一護教論』第43章から引用されたものです。


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それでは、初代クリスチャンは「神の主権」を認めていなかったのでしょうか。いいえ、前回の記事でご一緒にみました通り、彼らは一様に、神の主権を堅く信じていました。

「でも、こういう見解を持っていた初代クリスチャンは、殉教者ユスティノスだけだったのでは?」と思う方がいらっしゃるかもしれません。

そこで、本記事では、できるだけ広範囲に渡って初代クリスチャンの文章を集め、それをみなさんとご一緒にみていきたいと思います。


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もし、魂に、取捨選択する力がないならば、そして悪が、自由意志によらない否応なしのものであるならば、賞賛も非難も、報酬も罰も、正当なものとは言えない。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、Miscellanies, bk 1, chap.17



お造りになった万物を、神は良きものとされた。そして神は、各人に自由に意志する心をお与えになった。そして、それを基準として、神はまた、裁きの法を制定された、、、そして当然、誰でもそうしたいという意志を持つ者は、掟を守るであろう。

一方で、それらの掟を侮り、それとは正反対の方向へ逸脱する者も、依然として、この裁きの法に直面せざるをえないことは確かだ、、、各人が、適切な意志力を用い、どの方向でも自分の望む方へ、自分の進路を定めていくだろうことに疑いの余地はない。

アルケラオス(AD250-300)、Disputation with Manes, Secs.32,33



「人間は自由意志を持たず、避けることのできない運命の必然に支配されている」と考えている彼ら〔異教徒〕は、神があたかも、人間悪の原因であり、悪を造った張本人であるかのように描き出すことによって、神ご自身に対して不敬の罪を犯しているのだ

メトディウス(AD260-315)、The Banquest of the Ten Virgins discource 8, Chap.16



人の行ないや苦しみは宿命によるものでもない。そうではなく、各自は、みずからの自由選択により、正しい事を選ぶか、もしくは罪を選ぶかしているのだ、、、なぜなら、神は創造のはじめに、御使いにも、人間にも、自由意志をお与えになったからだ。従って、彼らが自ら犯した罪により、永遠の刑罰を受けることになっても、それは正当なこととされるのである。

殉教者ユスティノス(AD160)、Ante-Nicene Fathers Vol 1.190



人間であれ、御使いであれ、不敬虔な者と予知されていた人たちは、神のせいで、そのように邪悪に造られたのではない。各自は、自分自身の過ちを通して、そのような者として次第に現れ出てくるのである。

殉教者ユスティノス(AD160)、ANF 1.269



人間も御使いも、自分の意志のままに動けるよう自由な存在として造られた。だからといって、彼らに善なる性質が宿っているわけではない。それをお持ちになっているのは神のみである。しかしながら、それは彼らの自由選択を通して人間の内で全きものとされていくのである。その意味において、悪人は、自らの咎により堕落したことによって、正当に罰せられる。

その一方、義人は、その自由選択を行使することにより、神のみこころに反することを避けたことにより、賞賛されるに値するものとみなされるのである、、、そしてロゴス〔=イエス・キリスト〕の御力は、それ自体において、未来の出来事を予知する機能を持しているのだ。彼は「今後~が起こるだろう」と何度も未来のことを予告されたが、それは、運命としてのものではなく、自由な行為者たちの選択によって行なわれるものとして語られていたのである。

タティアノス(AD160)、ANF 2, 67,68



私たちは死ぬべくして創造されたのではない。そうではなく、私たちは自らの咎によって死ぬのだ。私たちの自由意志が自分たちを破壊したのである。自由な存在であった私たちは〔罪の〕奴隷となってしまった。罪を通して売られてしまったのである。どんな悪も、それは神によって造られたものではない。私たち自身が悪を表明しているのである。しかし、これまでそのようにして生きてきた者も、それを拒絶することができる。

タティアノス(AD160)、ANF 2, 69,70



しかしもしも、彼が神に不従順な者となり、死の方向に向きを変えるなら、彼自身が、自らに対しての死の原因となるのだ。なぜなら、神は人間を自由な存在としてお造りになり、選択する力を付与されたからだ

セオフィロス(AD180)、ANF 2.105



しかし、理性を賦与された人間は(その点において神に似ている)、自由意志を持った存在であり、自らに対する力を持った存在である。そしてその人が麦となるのか、もみがらとなるのかは、彼自身のもたらすところとされる

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.466



〔マルキオン派の人々は〕こう言っている。「しかし神はパロと侍従たちの心をかたくなにされたではないですか?」と。こういう難癖をつける人々は、主が福音書の中で弟子たちに語られた次の言葉を理解していないのだ。

そう、弟子たちが主に、「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか?」と尋ねた際、主は、こうお答えになった。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」、、

だから、神は、信じることをしない人々の数を知っておられるのだ。なぜなら、主は全ての事を予知しておられるから。従って、主は、自らの選択で暗闇にとどまり続ける者たちを不信仰に明け渡し、御顔をそむけられるのだ。なぜ〔マルキオン派の人々は〕、主がパロと侍従たちを不信仰に明け渡されたのだといって難癖をつけているのか?パロや侍従たちは、(その後も)決して主を信じることをしない人々だったのだ(for they would never have believed)。

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.502



神は、ご自身のわざを行ないたくない人に対しては、その人に、その行使を強要されない。、、彼らは自由な行為者として創造されたのであって、自分自身に対し力を持っているのである。

エイレナイオス(AD180)、ANF 1.523



自分の自由意志を持って、罪を犯す人はそれぞれ、刑罰を選び取っているのである。それゆえ、責めは、それを選び取る本人にあるのであって、神にその責めはない

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.226



罪というのは、私の側によって引き起こされる、自発的なものということになる。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.362



自らの意志に反して救われる人はいない。なぜなら、その人は無生命の物体ではないからだ。彼は自らの意志により、自由選択により、すみやかに救いへと導かれるのである。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF 2.534



私たちの意志の自由、、、魂というのは、神の息に源を発している。それは、不滅であり、、その決定において自由である。

テルトゥリアヌス(AD210)、ANF 3.202



人間は、〔植物や動物のように〕は統治されていない、、彼らの心の思いに関し、彼らは自らの選択により――力を賦与され、神のかたちに似た自由な存在として――行動しているのである。

バルデサネス(AD222)、ANF 8.726





(その2につづきます。)













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おお主よ、私に、もっとも純粋な祈りの涙をお与えください

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