第四章
   ゾリコン村ではじまった 神の働き


雪の夜



1525年1月25日、水曜夜のゾリコン村。

たいまつを持った二人の男が、ルディー・トーマンとボシャート夫婦の住む家の玄関前に立っていた。月はまだ出ておらず、南方からの暖かい風が、先週降った雪を溶かしていた。それで夜の闇は暗かった。

家の中にいたマルクス・ボシャートは、訪問者の軽いノックの音をきいた。彼は義父の方を向き、言った。「到着したみたいです。」

ルディー・トーマンは、頑丈なオーク材の椅子で休んでいたが、即座に立ち上がった。

屈強で小柄な男は大股で玄関ドアの方に歩いていき、バッと戸を開けた。「ようこそ、わが家へ。」彼は、二人の男を中に招き入れ、戸を閉めながらあたたかく二人を迎えた。
「食事の準備はもうすぐ終わります。レグラが呼ぶまで、客間でお待ちになりますか。」

そう言いながら、ルディーは古い石造りの家の客間に二人を通した。マルクスは立ちあがって、二人の男――ヨハン・ブロトゥリーとヴィルヘルム・ロイブリーンにあいさつをした。そうして訪問者は腰かけた。

話はすぐに、何よりも皆の頭を占めている例の話題に移った。

「今晩、ヴィルヘルムと私を招いてくださって、本当にありがとう。」ヨハンは言った。「今週は、妻にとっても私にとっても大変な一週間でした。おそらくヴィルヘルム兄弟にとっても同じだったと思う…」

「僕にとってもつらい一週間だった。」ヴィルヘルムは同意した。

ブロトゥリーは続けた。「こんな短い期間に家を発つ用意をしたり、友人、兄弟姉妹たち皆へお別れのあいさつに行ったりと、てんてこまいでした。考えてもみてください、あと三日しか残ってないんです…」

「わが家を出なければならないというのは確かにつらい。」ヴィルヘルムは言った。
「でも、何より一番つらいのは、我々が最も必要とされている、今この時期に去らなきゃならんということです。ヨハンも私もこの時のために働き、祈ってきた。そしてよりによって今、去らなくてはならない。」

「僕らの働きを続ける誰か他の兄弟たちが、必ず起こされるよ、ヴィルヘルム。」ブロトゥリーは言った。
「それじゃあ、君は…君はこの運動は拡がっていくって思っているんだね。」マルクスは尋ねた。

「神様はここゾリコン村に教会をお建てになるって僕は強く信じている。」ヨハンは確信に満ちて言った。
「それにヴィルヘルムが良い種をまき続けてきたヴィティコン村の教会も。その他、スイスの津々浦々、さらには国をも越えて、教会が建てられていくと思う。」

ルディー・トーマンは黙っていた。彼は神経質に、小さなナイフで木を削っていた。と、やおら彼は立ち上がり、部屋の中を歩き回った後、自分のひじかけ椅子に戻り、そこに腰をおろした。

「しかしだな。スイスにはウルリヒ・ツヴィングリがいる。」彼はつぶやいた。「ツヴィングリを忘れちゃいかん。そして強大なチューリッヒ参事会を。」

「ツヴィングリや参事会といえども、神の御働きを止める事はできません。」ヴィルヘルム・ロイブリーンは言った。

「それは分からん。それに関しては分からんね。」ルディーはぼそぼそと言った。そう言いながら彼はさらにスピードを上げ、削りくずが彼の前の床にたまっていった。「彼が二人の指導者をいとも簡単に処分したように、わしには思われるんだ。」

苦しげな表情がブロトゥリーの整った、あごひげのある顔に広がった。
「確かにごもっともだ、友ルディーよ。」彼は認めた。

「僕らは狼を前に、羊のように逃げている。でも、おそらくそこに、僕らには隠された神の御計画があるのかもしれない。おそらく主は僕らがどこか他の場所で働くようお望みなのかもしれない。――ここの村やヴィティコンほど福音がよく知られていない地域にね。」

「どこに行くのか当てはあるの、ヨハン。」マルクスは尋ねた。

「まだはっきりとは分からない。」ブロトゥリーは答えた。「たぶん、妻の親戚のいるハラウに行くことになるかもしれない。」
「いつ発つ?」

「いつ発つって?土曜日までは発つよ、もちろん。」ヨハンは苦笑した。「妻と赤ん坊の息子も一緒なので、ゆっくり進まなきゃいけない。ヴィルヘルムも家族を引き連れて、僕らに同行すると思う。そうだろう。」

「もちろん。」ヴィルヘルムは遠くを見るような眼差しをしていた。

ちょうどその時、レグラが戸口に現われ、夕食の用意ができましたと、はにかみながら告げた。四人の男は立ち上がり、居間に入った。居間の壁の灯りで、食卓一杯に広げられた食事が照らし出されていた。

食卓の中央には、湯気の立った野菜スープのボウルが備えられており、その周りにはパンとチーズと牛乳がそなえてあった。男たちは座り、ヴィルヘルムが食前の短い祈りを捧げる間、皆、頭を垂れた。

マルクスはパンとチーズを訪問客に手渡し、ルディーは、わが家の客としてたんと召しあがれと彼らにすすめた。
ヴィルヘルムはチーズを噛みながら、ルディーの方を見て言った。「もっと客が増えても、大丈夫でしょうな。」

ルディーはくすっと笑い、答えた。「もちろん大丈夫だ。が、それにしても、一体誰が来るんだろうか。お前さんが――今晩、夕食後に、友人の誰かが訪問してくるかもしれない――ってことを匂わせて以来、ずっと気になっていたんだ。」

ヴィルヘルム・ロイブリーンも微笑み返した。「――客が、他の人を招くなどというのはあるまじき事である――これは百も承知だ。特に、非合法の集会の場合はなおさらだ。だから私はお前さんに、招いても構わないだろうかとおたずねしているんだ。そう、実は、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックが今晩ここに来ることになっているんだ。」

マルクスはゾクゾクするような興奮を覚えた。ここ数日というものブラウロックとマンツについての話題で持ち切りだったが、今晩その二人がここに来るのだ。しかし彼が口を切る前に、ヨハン・ブロトゥリーが話し始めた。

「そして僕の方でも」とヨハンは言った。「何人かの友人が来るのを待っている。『チューリッヒから二人の兄弟がルディー・トーマンの家にやってくる』って、その人たちもあらかじめ話しておいたからね…」

「誰でも来なされ。友人として来るなら、わが家は彼らの家。歓迎するよ。」腕をいっぱい広げながら、ルディーは言った。

数分後、ヴィルヘルム・ロイブリーンがチーズの最後の一切れに手を伸ばしかけたちょうどその時、玄関の戸を静かに叩く音がきこえた。マルクスは席をはずし、戸を開けに行った。彼は玄関の戸を開け、暗闇をのぞき込んだ。二人の男が立っているのが見えた。

「ここがルディー・トーマンさんの家ですか」と、光の方に歩み寄りながら、二人のうち背の高い方の男が尋ねた。

「そうです」とマルクスは答えた。「どちら様でしょうか。どこからおいでになりましたか。」

「私はゲオルグ・ブラウロックです。」背の高い男は答えた。「グリソンズ村の生まれで、主の卑しいしもべです。こちらの同伴者はフェリクス・マンツ。誰か私共の到着を待っていますか。」

「ここにいるヴィルヘルム・ロイブリーンがあなたがたの到着を待っておられると思います。ただ彼は今、食事中ですが。」

マルクスが二人の新来客と共に部屋に入ると、ヴィルヘルムは席を立ち、あいさつをしに来た。
ゲオルグ・ブラウロックは手を伸ばし、ヴィルヘルムに平和の接吻をした。「主が我々と共におられますように」と彼は言い、同じように席を立っていたヨハンにあいさつをした。フェリクス・マンツはブラウロックの例に倣い、同様に二人の兄弟にあいさつした。

マルクス・ボシャートは、まじまじとこの二人の新来者をながめた。

ゲオルグ・ブラウロックと名乗った、二人のうちの年長の方がまず彼の注意をとらえた。ブラウロックは、周囲で起こっていることを何一つ見逃さないといったような精力溢れる男だった。

ゲオルグの、――部屋にあるもの全てをとらえるような目つき――から、マルクスにはそれがよく感じられた。彼はその深く鳴り響く声で会話の中心を占め、また、彼の言葉は歯切れがよくてきぱきしていた。

彼の黒みがかった髪は濃く長かったが、頭上の方は薄くなっていた。あごひげも黒かったが、少々白髪が交じっていた。ブラウロックは大柄かつ強靭な性格の男で、己のなしていることを全身全霊で信じていた。マルクスは彼の顔をながめた。

「まあまあ、お座りなさい」とルディー・トーマンの声がした。彼は客間から椅子を運んできていた。「まだ皆さん食事がお済みになったわけじゃありませんで。あなたがたもどうぞ召しあがってくださいな。」

「いいえ、けっこうです」とフェリクス・マンツは丁重に答えた。「チューリッヒを発つ直前に食べてきたのです。」

マルクスはこの若い方の男の方を向き、彼をじっと観察した。

マンツは25歳にも満たないように見受けられたが、彼の奥まった青い目と落ち着いた外観は、――彼が大いに研鑽を積み、人生の重大な事柄について考えに考え抜いた青年であること――を物語っていた。

ブラウロックの丸みのある頬とかさかさした顔に比べ、マンツは青白く、ほっそりとしていた。しかし彼の風貌に軟弱なところはみじんもなかった。むしろ彼の顔からは、マンツが、深い思想の持ち主であり、また敬虔で、確固たるキリストの弟子であることがうかがい知れた。

「どうぞ私たちに構わず、食事をなさってください」とブラウロックは言った。「体を扶養した後、我々は魂のことに気を配り、魂も肉体と同様に養われ、まことのいのちのパンによってはぐくまれる必要があります。」

「ぜひともそうしましょう。」ヴィルヘルム・ロイブリーンは言った。「我々の親切な主人ルディーは、危険をものともせず、我々のために居間を提供してくださった。ぜひとも早く集会を始めようじゃないか。」

ヴィルヘルムは顔についたパンくずをぬぐった。一番最後に食事を終えたのが彼だったため、これにて夕食は終わったのだった。一同は、食卓を離れる前にこうべを垂れ、祈った。

レグラが食器を片づけ始めると、男たちは居間に移った。ルディーは長いテーブルの周りに椅子を並べ、その上にランプを置いた。男たちは新約聖書の写しを取り出し、テープルの上に並べた。それから一人ずつ着席した。

マルクスはブロトゥリーの招いた隣人たちが到着した場合、彼らを案内できるように、戸口に近い隅に腰を下ろした。

彼が待つまでもなく、客は来た。彼らは三人一組になって来た。マルクスは彼らを熟知していた。一人目は、白髪混じりのひげをたくわえた祖父ヤコブ・ホッティンガー。二人目はズミコンという隣村に住む伯父ハンス・ブラグバッハだった。

伯父ハンスはホッティンガー家の娘の一人と結婚し、しばしばゾリコン村の家に立ち寄っていた。そして三番目の男は、、、マルクスはもう一度この男を見た。ハインリッヒ・トーマンだった、いや、でもハインリッヒであるわけがない。そんなはずがない。

今晩、ハインリッヒは、兄ルディーの家に何の用があって来たというのだろう。何か商売のことでルディーに用事があって、たまたま二人の兄弟がここに来たのにかち合ったのだろうか。

マルクスは、ハインリッヒ・トーマンがツヴィングリの熱狂的な弟子であり、忠実な教会人であることを知っていた。つい先週、ハインリヒがルディーに、再洗礼派についてどう思っているかを語っているのを、マルクスは小耳にはさんだばかりであった。

いや、よりによって、なぜ今晩、ハインリッヒがここにやって来たのか、マルクスにはてんで検討がつかなかった。ただ純粋な好奇心の他、来る理由などなさそうだった。ハインリッヒは外套を脱ぎ、席に腰掛けようとしていた。ということは、彼は居残るつもりなのだ。

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ゲオルグ・ブラウロックは話していた。「今晩、我々は神の唯一の御子、主イエス・キリストの御名によってここに集まっている。主は我々というあわれな罪人を贖うためにこの地に遣わされたのだ。ここに集まったのは、だらだらと時を過ごすためでもなく、しゃべって面白おかしく過ごすためでもない。そうではないのだ、兄弟たちよ。我々は自分たちに対する神の御心をもっと求めようとして、ここに集まったのである。そして神の名を賛美し、栄光を帰すために集まったのだ。さらに罪人を悔い改めに導くために集まったのだ。」

マルクスは注意深く聞いていた。彼はブラウロックの話し方に魅了された。

――絶えず抑揚をつけて話すリズミカルな声、ゾリコン村の方言とは違うアクセント――、そして何かに押されているかのように言葉が次から次へと流れ出てきている。ブラウロックは生まれながらの雄弁家であった。

しかしすぐにマルクス・ボシャートはブラウロックの話し方や、彼のすばらしい声のことなど忘れてしまった。今や彼の全精神はブラウロックの話している内容に引き寄せられていた。メッセージの強烈な内容を前に突然、話し手自体の影は薄くなった。

「どのようにしてまことの信仰を知ることができるのだろう?――そう、キリストは、実によって木を知ることができると仰せられた。つまり、それが良い木か悪い木かということである。

確かに、イエス・キリストが神の御子であると告白する人達はたくさんいる。しかし彼らは、みずからの罪のうちに生きている。彼らが持っているというその信仰は、彼らの生活に変化をもたらしていない。だから、それはまことの信仰ではありえないのだ。つまり、彼らの結んでいる実は、パウロの言う御霊の実――愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制――ではないのである。」

フリードリー・シュマッヘルが日曜日に井戸のほとりで洗礼を受けて以来、マルクスは、「僕はこういうものに関わらないぞ」と自分に言い聞かせていた。

もし義兄が新しい教会に加わるなら、それはあくまで彼の選択、彼の人生である。彼はフリードリーの勇気と誠実さに敬意を払っていた。でも、所詮それは他人事であった。自分はこういうものとは一線を画しようと思っていた。

ゲオルグ・ブラウロックは熱心に話していた。「キリストは言われた。『もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの掟を守ります』と。だからもし、我々が主の掟を守らないならば、明らかに主を愛していないことになる。そしてもしそうなら、我々の信仰はむなしく、主に受け入れられない。そして我々は贖われていないことになるのだ――そう、実際、我々はいまだに罪のうちにおり、肉にある古い人に仕えていることになるのだ。

つまり、使徒が命じているにもかかわらず、自分の肉を、情欲や欲望と共に、いまだ十字架につけていないのである。神のいとしき子として、主に従うべく、自分自身を余すところなく捧げ切っていないのである。」

「『主よ、主よ』というだけでは十分ではない。イエスはこう言われた。『わたしに向かって、主よ、主よという者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』と。

「今日、チューリッヒやその他至る所で、神に対する新しい改革運動をめぐって、大きな喧騒が起こっている。でも、指導者であるツヴィングリ師でさえ、天にいます父の御心に完全に服従していないとするなら、これらの改革運動は、『主よ、主よ』という叫びに何かまさるところがあるだろうか。」

時折、手を振って強調しつつ、その後、十分間ほどブラウロックは話した。それから彼はフェリクス・マンツに向き直り、言った。「フェリクス兄弟がこれから聖書を読み上げます。」

フェリクスは手元にある新約聖書のページをめくり、言った。「これらのページの中に神の御心が書かれてある。我々は混乱し、どうしてよいか分からない時、この中に答えを見つけなければならない。ここにこそ権威の声があり、神の御声があるのだ。」

マンツは声を上げ、続けた。「もし我々がまことの神の教会を建てようとするなら、この本に書いてある御言葉に従って建て上げなければならない。人間的な知恵や学識によって建て上げることはできない。もしくは何が教会にとって最善かを参事会に決めてもらうこともできない。

「詩編の作者は、主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしいと言明している。我々が主の掟に進んで従おうとしないなら、どうして主は我々を祝福することができようか。ローマ人への手紙八章を読みましょう。」

マルクス・ボシャートは農民の子であり、あまり長い間学校へは通わなかった。彼はヨハン・ブロトゥリーの隣に座り、フェリクス・マンツの読み上げる御言葉をなんとか目で追おうとした。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない、、、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである、、、

「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」

フェリクス・マンツは時々、聖句に説明を加えながら、ローマ人への手紙八章を読み上げていった。マルクスはどこを読んでいるのか目で追えなくなったので、椅子にもたれ、もっぱら聴くことにした。この章を今まできいた覚えはなかった。

御言葉は新鮮だった。そしてメッセージは魂を揺さぶるものであったが、同時におそろしくもあった。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである、、、」

マルクスはテーブルの周りを見渡してみた。伯父のハンス・ブラグバッハは身を前に乗り出し、フェリクス・マンツの口から語られる言葉一つ一つを熱心に聴いていた。祖父のホッティンガーは、目を閉じていたが、マルクスは祖父が居眠りしているわけじゃないことを知っていた。というのも、こういう風にした方がもっと集中できるんだと、祖父は以前彼に話したことがあったからだ。

それからマルクスはハインリッヒ・トーマンをみた。一瞬、彼は読みあげられている章のことを忘れてしまった。ハインリッヒは自分の椅子をできるだけ後ろに押しやっていた。そうすることによってあたかも、メッセージから逃れようとしているかのようであった。

ハインリッヒの表情をみると、彼が退屈しており、あからさまな反感を抱いていることが見て取れた。一体どうして彼はこの集会に来ることになったのだろうと、今一度マルクスは首をかしげた。

マンツがローマ人への手紙の章を読み終えると、ヴィルヘルムはコロサイ人への手紙を読み上げた。聴いているうちにマルクスは、部屋の中に一種の緊張感が漂っているのを感じ始めた。伯父のハンスは上唇を噛んでいた――神経が高ぶっている何よりの証拠だ。

ヴィルヘルムは読み上げた。「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない、、、」

マルクスは頭の先がチクチクし、自分では定義しがたい何かに対する切実な求め――そんなものが自分のうちに溢れるのを感じた。頭の中では、彼は、「こういう事に巻き込まれちゃいけない」と自分をしかっていた。

御言葉は続いていた。「、、、今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互いにうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行ないと一緒に脱ぎ捨て、、、新しい人を着たのである。」

マルクスは祖父がしているように、目を閉じた方が、頭がはっきりするのかどうかと、目をつぶってみた。レグラも皿洗いを終え、聴いていればいいがと思った。彼は辺りを見回した。そう、レグラもそこにいた。彼女は戸口近くの腰掛けに座っていた。

そうこうするうちに、聖書朗読は終わり、ブラウロックは一同に祈りを呼びかけた。九人の男たちはひざまずき、ゲオルグ・ブラウロックは祈りを導いた。精魂傾けた彼の熱心な祈りの言葉に、マルクスは背筋がゾクゾクするのを感じた。

と、突然、理由も分からないままに、熱い涙がどっと沸いて来た。いったい僕はどうしたっていうんだ。マルクスは自身をたしなめた。女のようにしくしく泣くなんて。

祈りは終わった。マルクスは立ち上がり、座ろうとしていると、視界の隅にハインリッヒ・トーマンが入ってきた。彼は皆と一緒にひざまずいておらず、目はまっすぐ前を向いたまま、体をこわばらせて椅子に座っていた。

どこからかむせび泣く声が聞こえた。マルクスは声のする方を向いた。伯父のハンス・ブラグバッハが手で頭を抱えながら、こらえ切れずに泣いていた。しかし段々と、むせび泣く声は小さくなっていき、ハンス伯父は、苦悩に満ちた声で叫んだ。「私は、、、私は神の前にどうしようもない罪人だ。」

ブラウロックは彼の脇にいて、いともやさしい声で言った。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られたのだよ。」

「それじゃあ、、、それじゃあ、どうか私のために神に祈ってくれ、頼む。」

「もう一度、ひざまずいて祈ろう」とブラウロックは言った。「この魂は御国の近くまできている。だから、それぞれ神に心を開き、ハンス兄弟が主の前に恵みを受けることができるよう祈ろう。」

再び、一同はひざまずいて祈ったが、今回は沈黙のうちに祈った。

祈りを終えて立ち上がると、ゲオルグ・ブラウロックはハンスの方を向き、尋ねた。「あなたは心から洗礼のしるしを望みますか。――それにより、あなたが罪を悔い改め、古い人に死に、これ以後、主の道に従って歩んでいきたいという意思を表するために。」

ズミコン村のハンス・ブラグバッハは一心に答えた。「はい。」
フェリクス・マンツは立ち上がった。「この人に洗礼を施すことに関し、誰か異議のある人はいますか。」

「誰もいませんね。」ブラウロックは言った。
「水を持ってきていただけますか?」フェリクスはルディーに頼んだ。
ルディー・トーマンは居間に急いで行き、手桶の水と小さなひしゃくを持って戻ってきた。彼はそれをテーブルの上に置いた。

ハンス・ブラグバッハは、フェリクス・マンツの前にひざまずいた。マンツは手にひしゃくを持ち、手桶からそれで水を汲み、ひざまずくハンスの頭の上にゆっくりと水をかけながら、こう言った。「この水は、神の恵みの象徴です。父なる神、子なる神、聖霊なる神の御名によって、私はあなたに洗礼を施す。」

マルクスはレグラの方を見やった。彼女は腰掛けに座り、ひざの上に手を組み合わせ、この場面を見守っていた。彼女は真剣な、緊張した面持ちをしていた。マルクスは彼女と目が合った。彼女は彼を見、わずかに微笑んで見せた。

マルクスはもう一度見た。
レグラの後ろの薄暗い、明りのついていない廊下に、彼は雇い人ヴァレンティンの姿を認めた。ヴァレンティンは友人の所に行っていたが、早めに帰ってきたものらしい。彼はいつ家に入ってきたのか、そしてどの位、集会の様子をみたり聴いたりしたのかと、マルクスは気になった。

ハンス・ブラグバッハは席についた。
次にヤコブ・ホッティンガーが口を開いた。「私も洗礼のしるしをいただきたい。ここ数カ月というもの、私は聖書を読み、学びを続けてきた。チューリッヒへも何度となく足を運び、聖書の学びに参加してきた。ここゾリコン村に神の教会を建て上げる時がついにきたのだと私は思う。誰に仕えるのか選ぶ時がきたのだと思う。私と私の家族に関しては、ヨシュアとともに、『我々は主に仕える』と言いたい。」

「神があなたの力となりますように。」ヨハン・ブロトゥリーがささやいた。
フェリクス・マンツはもう一度ひしゃくを取り上げ、同じようにして、ヤコブ・ホッティンガー爺に洗礼を授けた。

「それでは」とゲオルグ・ブラウロックは部屋にいる一人一人の顔を見ていきながら言った。「もし今晩ここにいる人の中で、神と契約を結び、主にあって新しい人生を始めたいと思う人がいたら、どうぞ今言ってください。」彼の目はマルクスの上に止まり、そこにとどまり続けた。マルクスはもじもじした。

「いや、そんな事はできない。」彼は自分に言い聞かせた。

僕はまだ心の準備ができていない。まずレグラに話さなきゃ。もっとじっくり考える時間が必要だ。僕は、、、僕は事を起こす前に、自分がなにをしようとしているのかちゃんと分かっている必要があるんだ。それに両親にも話さなくちゃならない。それからお義父さんはどう思うだろう。マルクスはブラウロックの熱い視線を避けようと、うつむいた。

マルクスは額の汗をぬぐおうと手を上げた。顔が燃えるようにほてっていた。そして皆という皆の目が自分に注がれているように感じられた。誰も話さなかった。皆待っていた。

マルクス・ボシャートは咳をした。

彼は、レグラがどう思っているのか、目を上げてみる必要があった。彼は頭を上げた。

レグラはうつむいていた。しかしマルクスの視野には何か他のものが入ってきた。ハインリッヒ・トーマンである。ハインリッヒは今晩ここで行なわれたことにショックを受けていた。硬くこわばった彼の口元をみれば、マルクスにはそれが分かった。そしてハインリッヒは、村役人のハンス・ウェストの知己であった。そうだ、今は洗礼を受ける時じゃない、とマルクスは確信した。

ついにゲオルグ・ブラウロックが再び口を開いた。「今晩、二人の魂が教会に加えられた。我々に対する主の寛大さゆえに、神を賛美しよう。しかし、二人の新しい兄弟に前もって警告しておくが、今はくつろいでいる時ではない。戦いは始まったばかりなのだ。サタンは兄弟たちに誘惑や失望をもって迫って来るだろう。あえて言うが、迫害さえ襲ってくるだろう。しかし、どんな状況におかれても、あなたがたは後ろを振り返ってはならない。イエスは言われた。『手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない』と。」

ブラウロックは続けて言った。「兄弟愛のしるしである、パンとぶどう酒による聖餐式にあずかるのに、今が格好の時であると思う。『どこでも主の名において二人、三人集まる所に主はご臨在される』と、キリストは約束なさった。従って、もし我々が心から主の名によって集まっているのなら、今晩主の祝福が我々とともにあるだろう。」

マルクスは、話題が変わったことで今やほっとして、話し手の方に目を上げた。
ブラウロックが最後の言葉を語りながら、ハインリッヒ・トーマンの方を見ていたのを、マルクスは見て取った。ハインリッヒは立ち上がり、ヴァレンティンのいる暗い廊下に出て行った。彼が廊下を行ったり来たりしているのが、マルクスにはきこえた。

ブラウロックはヨハン・ブロトゥリーに第一コリント人への手紙の一箇所を読み上げるよう頼んだ。ブロトゥリーは読み始めた。

わたしは、主から受けたことを、またあなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい。』

「食事ののち、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行ないなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。


この箇所が読み上げられた後、フェリクス・マンツはパンとぶどう酒の意味について説明をした。

つまり、これは――カトリック教会が教えているように、実際にキリストの体や血に変わるわけではない。そうではなく、あくまで、キリストの苦しみを表す象徴であり、兄弟愛のしるしである――、と。
そして彼は着席した。

今度はブラウロックが立ち上がった。「もう一度お願いしなくてはなりません」と彼はルディー・トーマンに言った。「パンを一つ、それからぶどう酒の盃を持ってきてもらえますか。」

ルディーは台所に入り、すぐにパンとぶどう酒を持って戻ってきた。
ブラウロックは手にパンを取り、それを裂き始めた。それが済むと、彼は言った。「神が、主の死とその血潮によって贖ってくださったと信じる者は、私と共にこのパンにあずかり、このぶどう酒にあずかりましょう。」

ちらちら揺れるランプの光の下、兄弟たちは厳粛な面持ちで、各々パンをとり、ぶどう酒にあずかった。見ていたマルクスは魅了され、自分も参加したいという思いに駆られたが、自分は不適格者だと感じた。

とその時、玄関の戸がバタンと大きな音を出して閉まった。

それはあたかも誰かが力まかせに閉めたような音だった。テーブルを囲んでいた男たちははっとして戸口の方を見、ルディーとマルクスは何事が起こったのかと調べに行った。

すぐにルディーが戻ってきて言った。「兄だった。ハインリッヒ兄さんがイライラしていたのは気付いていたが、帰ろうとしていたのは知らなかった。」

「もしかして、、、もしかしたら彼は、、、」とヨハン・ブロトゥリーが言いかけた。
「彼は村役人の所に行ったと思うかい?」とヴィルヘルムは尋ねた。

「いいや、そんな事はないと思う」と幾分確信をもってルディーは答えた。「兄さんは家に帰ったと思う。」

集会は突然の妨害により、閉じることになり、ホッティンガー爺は家に帰ろうと席を立った。
伯父ハンス・ブラグバッハもそれに続いた。彼らは目に涙をうかべて、兄弟たちに別れのあいさつをした。何分か後には、ブロトゥリーとロイブリーンも夜の帰路についた。

「今晩はここにお泊まりでしょうな」とルディー・トーマンは、フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックに尋ねた。

「そう許してくださるなら、喜んで。」ブラウロックは答えた。「もう遅い時間だし、我々は疲れてもいます。それにこの家での我々の働きは、まだ完全に終わっていないように私には思えるのです。」

ルディー・トーマンは、一体何のことだろうと問うような眼差しで、彼を見た。

ゲオルグはただ単にこう言った。「今に分かります。明日の朝、主の御心なら、分かるでしょう。」
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第5章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第3章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

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