「友だちをねたんでしまう」と
人知れず悩んでいる中高生のみなさんに贈る応援メール


振り返ってみると、小・中・高時代をつうじて、私はいつもクラスメートや塾の友達をねたんでいたような気がします。友だちの喜びを喜びとすることができず、人が自分より秀でていることや人気を博していることに我慢ならないものを感じつつも、そういう思いを抱く自分がいやでした。そして人知れず、悩んでいました。

大学に入り、はじめて聖書に触れ、やがて信仰を持つようになりました。そうしてはじめて、私はどうして自分が人をねたんでいたのか。そもそも「ねたみ」とは何なのか。どうしたら、ねたむことなく、友だちを心から愛しいつくしむことができるのか、といったことに関して、心の目が開かれていったのです。

それと共に、「ああ、中高時代、だれかがこの問題について私に率直に語ってくださっていたなら、助言をくださっていたなら、私の青春時代はもっと心安らかで楽しいものになっていたろうに、、、もっと友だちとの友情を育むことができていたろうに、、、」と残念でなりませんでした。もう過去に戻ることはできないし、あの時代には永遠の蓋がかぶされてしまったからです。

でも、ひとつ今の私にでもできることがあると思いました。それは、自分の失敗や葛藤しつつ学んできた経験を若い学生のみなさんにお分かち合いすることによって、当時の私と同じような問題で人知れず苦しんでいるだれかの助けになることができるかもしれない、ということです。

《ねたみ》とは何でしょうか?

国語辞典をひもとくと、「《ねたむ》=他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む。他人の長所・幸運などをうらやんで、憎らしいと思う。」とあります。

私は自分よりもかわいらしく人気のあるクラスメートを心の中でいつもねたんでいましたし、自分よりも成績の良い友だちのこともひそかにねたみ嫌っていました。

「人の上に秀でたい、認められたい。称賛されたい。人にすごいって思われたい。いろんな人の関心を(他の人にではなく)自分の方にこそ向けさせたい。脚光を浴びたい。どんな分野でも一番になりたい。」――そういう思いがマグマのように心の底にひそんでいました。

だから友人が自分以上に脚光を浴びるのをみるのが我慢ならなかったのです。でも当時の私は、自分がどうしてそういう不愉快な気持ちになるのか理由がよく分かりませんでした。

ところで先ほどみたように国語辞典には、「ねたむことは、人をうらやましく思って、、憎む」とあります。ここから分かるのは、ねたみは最終的に「憎しみ」に行き着くということです。「ねたみ」が始発駅だとすると、終点は「憎しみ」ということになるのです。つまり、ねたみはねたみだけで終わらず、癌細胞のようにひろがっていくのです。そして、聖書はこうした癌細胞のことを「罪(sin)」と呼んでいます。

私は自分の抱えていた問題が、「ねたみ」であり、「罪」であるということを(聖書を通して)知ったとき、今までがんじがらめだった私の心に光が入ってきたように感じました。そして言いようもなくほっとしました。

それはたとえて言うならば、腹痛に何年も苦しみつつも、どこの病院でも「原因不明です」と言われ続けてきた人が、ついにある日、ある病院の名医によって正確な診断をくだしてもらった――、そんな感じでした。

聖書にはまた「愛は、、、人をねたみません」(1コリント13:4)と書いてあります。
愛の本質は人をねたまないところにあるのです。つまり、ねたむ人はねたんでいる相手を愛していないのです。逆にねたんでいる相手を憎らしいと思っているのです。人々がイエス・キリストを十字架につけて殺したのも、《ねたみ》のためだったと聖書には書いてあります(27:18)。

ねたみとは、それほどに深刻な罪だったのです。

でも聖書の神は、私に診断書をかいてくださっただけでなく、その癌細胞を摘出する手術までしてくださいました。私は、自分のこのねたみの罪のためにも十字架上で死んでくださったイエスさまを本気で信頼しようと思いました。そして心から友人を愛することのできる人間に私を変えてください、私の罪をゆるしてくださいと祈りました。

そして実際、その後、私の人生にはびっくりするほどの変化が起きたのです。

信じてすぐに、私は、中高の時のクラスメートのもとへ行き、自分が彼女を長年ねたんでいたことを告白し、赦しを請うたのです。その瞬間、今までずっと私たちの間に立ちはだかっていた壁がくずれ落ちるのを感じました。そして私の中に今までにない種類の感情――友人の幸せを願い、友人の存在自体をいとしく思う心――が芽生えてきたのです。その後、この友人とは今日にいたるまで、深いきずなで結ばれています。

またその後、聖書の神さまをもっと深く知るようになるにつれ、私は《ねたみ》の根(ルーツ)についても目が開かれるようになりました。

《ねたみ》のルーツ

バジレア・シュリンクという方は、『変えられたいあなたに』という本の中で、人が他の人間をねたむ三つの根本原因について書いておられます。

それによると、第一に、ねたみの根は通常、私たちの利己主義(エゴイズム)か、物資的・霊的なものに対するどん欲にあるということです。

また第二の根は、神に対する不信の念にあると書いてあります。「あの人にはあれだけの才能が与えられていながら、私には少しも取り柄がない。神さまって不公平だ」といって私たちは自分と他人を比較するのです。

「ねたみを追放するためには、神に対する反抗的な不信の念を捨てなければなりません。疑うのではなく、常に私たちにとって最善のものを与えてくださる愛の神を信じるのです。神が導かれる道は、いつも私たちにとって最善の道です。(p263)」

「他の人の喜びや重荷をはたから見て評価するほど愚かなことはありません。なぜなら、その人の事情や背景について、私たちはよく知らないからです。私たちがねたましく思っても、その人自身はそれを重荷に感じているということが往々にしてあるのです。(p263)」

そしてねたみの第三の根は、私たちに感謝の気持ちが足りないからだとバジレア・シュリンクは言っています。

たしかにそうだと私も思います。学生時代、私は、自分よりも頭のいい友人のことをねたんだり、自己憐憫に陥ったりしていましたが、今、ここギリシアで、祖国を追われ身一つでやって来る難民の家族をみるとき、そして勉強したくてもする環境にないかわいそうな難民のこどもたちをみるとき、「ああ、私が安定した環境で自由に勉強することができたのは実はどれほど大きな祝福だったのか!」と今さらながら感謝の気持ちがなかった自分を恥じます。

そして、そういう目で物事をみていくとき、私たちはないものをねだり、ブツブツいう人間ではなく、今与えられているもの一つ一つに感謝していくことのできる内的に満ち足りた人間になることができるのだと思います。

「私たちが自分のねたましい思いを主に明け渡していく時、イエスはねたみから私たちを解き放つために立ち上がってくださいます。主は私たちを縛っていた鎖を断ち切るために来られました。(p264)」

私の好きな赤毛のアンには、ダイアナという無二の親友がいます。ダイアナは体格的にもアンのようにすらっとしておらず、アンのように成績がいいわけでもありませんでしたが、決してアンをねたむことなく、いつも友の成功をわが事のように喜び、応援する――そんな素朴で愛にあふれた人柄でした。そして二人の間には美しい友情がいつもありました。

これまでねたみの三つの根をみてきましたが、それに加えて、私は個人的に第四の根を挙げたいと思います。

それは、「これまで条件的な愛しか受けてこなかった私たちの心にひそむ、漠然とした不安」です。
いいかえれば、「だれか、この私を、ありのままの私を受け止めて!ありのままの私を愛して!」という、深いところにある私たちの叫び、といっていいかもしれません。

私たちの多くは、そういった心の渇きを満たそうと、人に認められるべく、やっきになって奔走します。そして思うように自分の方に称賛や関心が集まらないと、他の人をねたむのです。

でもこの渇きは、私たちが神さまの愛のふところに抱かれた時はじめて、満たされるのです。――そう、お母さんの胸に抱かれ安心しきってスヤスヤ眠っている赤ん坊のように。

そして、この愛のうちにすっぽり包まれた人は、心満たされ、「私は愛されるために生まれてきたんだ」というすばらしい真理のうちに、身も心も休めることができると思います。

親愛なる中高生のみなさん、あなたは本当にかけがえのない存在です。

あなたや周りの人が、あなた自身の素質、才能、容姿等をどう評価しているかにかかわりなく、あなたはとてもとても尊い存在なのです。どうかそれを忘れないでください。

長いお手紙になりました。読んでくださってありがとう。


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