キリスト教・セクト主義(Sectarianism)の痛みを越えて


昨年、心痛む出来事がありました。

米国の某神学大学で組織神学を教えておられる教授がミニストリー支援のためギリシアにやって来られました。この方は、私たち現場にいる奉仕者とも協力しつつ、今後この地で大規模にミニストリーおよび神学教育を展開したいと考えておられました。私たちは、この方が献身的なキリスト者であることを十分承知しており、尊敬していましたが、この方および某教団の奉じる神学体系のうち、いくつかの点で、どうしても同意しかねる所があり、私たちの良心にかけても、この事を教授にお話ししなければならないと感じました。

こうして話し合いの場を持ったのですが、残念なことに、この方は立腹され、私たちのリーダーは、「異端的」かつ「反キリスト」で、私たちの集会は「カルト」「悪魔的」だと断罪されました。私は、同じキリストを愛する兄弟の口から、このような言葉が無慈悲に出されたことに、大きなショックを受けました。

異端

「異端」――ギリシアに来て、何度この言葉を聞いたことでしょう。Αἳρεσις(『異端』という意味のギリシア語で、現代語ではエレスィスと発音されます)は、元来、『分派・党派』という意味でしたが、キリスト教の歴史の中で、やがて、『正統信仰とは異なる立場をとる教説や教派』を指すようになりました。

しかし、この「正統」「異端」という尺度は、あくまでそれぞれの宗派・教派が自分たちを基準として判断しているため、その線引きもカテゴリー化も千差万別です。

例えば、ギリシア正教の立場からは(もちろん全員ではありませんが)、プロテスタント諸派は十っぱひとからげに「異端」とくくられる場合が多いようです。従って、ここギリシアでは、唯一の「正統信仰」である正教(オーソドックス)を奉じない私たちは、すぐに「異端」の烙印を押されます。

ついこの前も、こんなことがありました。難民収容所にいるH兄弟に差し入れを持っていったのですが、そこにいた看守の一人が、「あんたがた、Hとはどういう関係か?家族か?」と訊いてこられたので、「私たちはクリスチャンで、Hさんは主にある兄弟です」と答えたところ、「それなら、あんたらギリシア正教徒か?」と質問されました。

「いいえ。」と答えると、「じゃあ、カトリックか?それともエヴァンジェリカル(福音派)か?」とさらに質問されたので、「そうですね、じゃあエヴァンジェリカルということになりますね。でも私たちもクリスチャンです。」と答えると、看守はカッとなってこう言い放ちました。「いや、いや、そんなことはない。あんたたちはクリスチャンじゃない。異端なんだ!」

「異端」――なんという恐ろしい言葉でしょう。
私たちはこの言葉の持つ意味の重大さをどのくらい理解しているでしょうか。

これは、私たちと同じく主を礼拝し、主に仕えている兄弟姉妹の永遠の行き先にかかわる言葉です。永遠の御国か、火とうじの尽きない永遠の地獄か、、、私たちは、神に代わって裁きの座に座り、他の信者の行き先を断定してもいいのでしょうか。

20世紀に入り、これまでいわゆる「異端派」とされてきた中世の諸派(ヴァルド派等)の研究が進み、彼らの信仰の実態がようやく明かされつつあります 。そして多くの歴史家たちによっても、実は、彼らこそ、聖書信仰に生きた、宗教改革の先駆者たちであったとの評価がなされ始めています。しかし当時、彼らは異端者として裁かれ、尋問を受け、その多くは、手足を切られたり、舌を抜かれたり、生皮をはがされたりした挙句、火あぶりにされたのです。

※Leonard, Verduin.The Anatomy of a Hybrid, A Study in Church-State Relationships. Florida: The Christian Hymnary Publishers,1976
David W, Bercot. The Kingdom That Turned The World Upside Down. PA: Scroll Publishing, 2003


私はこのことについて、長い間、考えてきましたが、今回の心痛む出来事を通し、セクト主義(sectarianism)はやはり、イエスさまの心、及びキリストのみからだを傷つけ続けている霊的な病ではないだろうかと思いました。そして、この病根により、どれだけ多くの、主を愛する牧師先生や主のしもべが、誹謗・中傷され、傷ついてきただろうかと思いました。

しかし一方で、セクト主義およびその精神を、「一種の必要悪、真理の砦を守るためにやむをえない心の姿勢だ」と考える自分もいたのです。その葛藤の経緯もここに書こうと思います。

狭い道

20世紀に入って、組織化されたエキュメニカル運動が盛んになり、その中で、聖書の無謬性や、キリストの神性が公然と否定されたり、宗教多元主義の流れで、イエス・キリストの十字架による贖いと罪の赦しの真実性までが疑問視されたりしはじめました。特に北ヨーロッパや北米で、その傾向が著しいようです。

北米のある伝道者はこのように言っておられました。「多くの牧師は、圧力団体から、『性差別主義者』とバッシングを受けるのを恐れ、1コリント11章の『女のかしらは男であり、』や、コロサイ3章『妻たちよ、、夫に従いなさい』というような箇所をあえて語らなくなっている。また、hate speechだと法的に訴えられるのを恐れるあまり、御言葉をまっすぐに語らなくなっている」と。

こういう不気味な思想潮流の中にあって、御言葉に忠実に生きていくことは今後ますます難しくなっていくように思われます。

その意味で、自分の教団神学の「聖さ」を死守し、それ以外の教えや教団・教派の教えを、手厳しく「異端」だと切りつけていく人々は一般に、現代のこういう(神学的・社会的)リベラル化を憂い、真理に熱心な方が多いように思います。私自身、彼らのその熱意を理解できるような気がします。しかし、そこには一つ落とし穴があるように思うのです。

キリストの道は、何と狭い道かと思います。

一方の側にそれると、そこには「リベラル化した、人間中心的エキュメニカリズム」という絶壁があり、他方の側にそれると、そこには「偏狭なセクト主義」もしくは「教団神学至上主義」という絶壁があります。そのどちらに落ち込んでも、私たちの霊的いのちは致命的な打撃を受けてしまいます。

私は前述の神学教授に、次のようなお手紙を差し上げました。

「、、、反対されるかもしれませんが、私は個人的に次のように考えています。つまり、神様は、私たちのこしらえた、厳格な『神学ボックス』よりも大きい方であるということです。そして主の恵みは、私たちの思い・考えを越えて、自分たちとは多少異なる他のクリスチャン(クリスチャン・グループ)にも流れうるし、流れているかもしれないということです。だから、多少の見解の違いはあったとしても、私たちは主を心から愛し、主に仕えている他の教団・教派のクリスチャンを、兄弟姉妹として受け入れることができる(少なくともその可能性に心の戸を開けておくことができる)と思うのです。」

イエスさまご自身が「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます(マタイ12:32)」とおっしゃっておられます。

それならば、人の子であるイエスを心から愛し、イエスの戒めに忠実に生きていこうとしている兄弟姉妹の「キリスト論」や「三位一体論」等に、少々「神学的」誤謬があったとして(それも意識的にイエスを冒涜しようとか、軽んじようとか思っているのではなく、敬虔な思いでその解釈を信じている場合はなおさら)、イエス様はそれらの「誤謬」を堪忍してくださらないでしょうか。

それとも、私たち人間は、イエス様よりも、神学的に「鋭く、賢い」ので、私たちに限っては、そういう信者を「異端」だと裁き、情け容赦なく断罪する権利があるのでしょうか。「裁いてはいけません。裁かれないためです(マタイ7:1)」とおっしゃったイエス様の言葉は、この場合、無効になるのでしょうか。

確かに、今回の悲しい出来事を通して、私の心は深く傷つきました。しかし、一方でこの事が起こるのを主が許された、という事実に私は神の深い御配慮を感じました。

おわりに

「真理には排他性がある」ということを聞いたことがあります。

たしかに、「わたしが道(ἡ ὁδὸς)であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません(ヨハネ14:6)」と宣言されたイエス様の言葉は、今日の宗教多元主義の流れでは、もはや受け入れがたい「非寛容」な言葉として排斥される(もしくは「再解釈」される)のかもしれません。

そしてその言葉とともに、現代においても、イエス様は排斥され続けているのかもしれません。その意味で、「主人にまさるものではない」弟子も、この世にあっては排斥されることを覚悟しなければならないと思います。

しかし、その一方で、自分や自分の属している派(宗派・教団)こそが真理の保持者であり、その他のグループには一寸の希望も見い出さない――そういった態度もまた、イエス様の心を悲しませていると思います。そして、世の人々は、いがみあい、裁き合っているクリスチャンのうちに、愛からは程遠いものを感じていると思います。

《締め》と《ひらき》、《線引き》と《融合》――とてもむずかしいです。
ただただ、主に助けとあわれみを求めるのみです。

主よ、このことに関しても、私はあなたの知恵と光を切に必要としています。
さまざまな意見があり、立場があります。考えれば考えるほど、わからなくなる問題も
多いです。
でも私の唯一の願いは、あなたに喜ばれる道をすすんでいくことです。
どうか助けてください。導いてください。アーメン。

最後に、カール・ヒルティのことばを引用します。

「私はいずれのキリスト教会にも反対する者ではない(カトリック教会、ギリシア正教の教会やイギリス国教教会にも反対しない)。もっとも、これらのどの教会もキリストが心に描いていたとおりの教会だとは思わないけれども。

「私は、真のキリスト者は、この世の終わりにいたるまで、あらゆる民族、あらゆる教会において、つねに少数派を形成するにすぎないと信じている。これはまた、『女がそれを取って、三斗の粉の中に混ぜるパン種』(マタイ13:33)について言われた主自身の言葉とも本当に一致するものだ。

「粉はパン種によって有用なものとなるが、しかし粉そのものはパン種ではない。われわれもまたそういうことで満足しなければならない。パン種においては、量よりも質を重んじなければならないが、粉においてはそれでパンを焼き、食物となり、大勢の人の栄養となれば、それで十分である。

「もし事柄をこのように考えなければ、ただ教会に受動的に所属し、その儀式に参加すれば、それでよいというほどまでに要求を大幅に引き下げねばなるまい。それとも、キリストはほんのわずかな人たちを救済するだけで、残りの者は救われることなく、ほとんど冷淡に、この世の君(サタン)の手に委ねられてしまうのだという、小会派(=セクト主義)などの見解に到達するほかはあるまい。」

  カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第二部』(岩波文庫)p91‐92


主よ。あなたのおきての道を
私に教えてください。
そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。
  詩篇119:33


(おわり)

友のために命を捨てた牧師 ――ハイク・ホヴセピアン(1994年殉教)の生涯と証し

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