350px-Covenanters_in_a_Glen20160223.jpg
迫害され、山中で集会を開く非国教徒たち(Covenanters)、スコットランド、17世紀


非国教徒抑圧を目的として、1662年、イギリスで統一令(The Act of Uniformity)が施行された。

この条例により、イングランド内のすべての聖職者と学校の教師は聖公会の改訂祈祷書を承認することが義務付けられ、監督教会によって叙任されていない聖職者はすべて、牧師職をはく奪されることになったのだ。


AnAct20160223.jpg


バクスターは、2000名の他の牧師たちと共に、この条例に反対した。そのため彼は激しく誹謗・中傷を受けたのである。折しもこの時期、スコットランドでは、カヴェナンター(契約派)の聖徒たちが、殉教の血を流していたのだが、それと同様、バクスターも、「しばし危険の中に置かれた。」


220px-Millaiswilson20160223.jpg
殺された非国教徒の少女マーガレット・ウィルソン、スコットランド、1685年


そしてついに1685年5月、バクスターにとって最大の恥辱をもたらす日がやってきた。

「血なまぐさい裁判」を司ることで悪名高いジェフリー裁判官は、「新約聖書を意訳した」というでたらめな咎により、バクスターを教会誹謗罪に定めたのである。

こうして、偽りの告発を受けた彼は、400ポンドという当時としては甚大な額の罰金を命じられた。そしてその罰金を支払うまでは獄から出ることはできない旨を言い渡されたのである。

さらに、当時すでに70歳という高齢のバクスターに対し、「この者を荷馬車の後ろにつなぎ、鞭打ちながら、ロンドンの街道を引き回す」という判決まで出されたのだ。(しかしこれに関しては、執行直前に、酌量がなされ、バクスターはこの見せしめ刑を免れることができた。)

バクスターはまた読書の人、執筆の人でもあった。彼は生涯に渡り、200冊余りの著書を記し、詩集を編み、また詩篇歌を編纂したのである。


ーおわりー

f5d849b17252c88da65859518dd36f8420160223.jpg

以下は、リチャード・バクスターの『へブンリ―・ライフ』からの抜粋です。(引用元

おゝ、常に神を友のごとく考えることができるなら、どんなによいことか! 

ご自分を愛するにもまさって誠実に私たちを愛してくれる友、私たちの益をはかるため私たちのことしか考えず、それゆえご自身とともに永遠に住まうための家を備えてくださった友と考えることができるなら、常に神とともにある心を持つことも、さほど難しくはないであろう。

自分が心からこよなく愛する人のことを考えることほど甘やかなこと、何の努力もなしにできることはない。

だが残念ながら、ほとんどのキリスト者は、神の愛よりも心暖かな友人の方がまさっていると考えているのではなかろうか。

そうだとすれば、彼らが神よりも友人の方を愛し、神よりも友人の方に重い信頼を置き、神よりも友人とともにいることを好むとしても、何の不思議があるであろう。



それゆえ、私たちは、形式ばった上品さや、慣習や、人々の賞賛などは打ち捨てて、密室の祈りにおいても公同の祈りにおいても、祈り終えるまでに自分の心をより神に近づけようという希望をもって膝まづくことである。

聖書を開くときには、----他の本でも同じだが----神の真理の光を放つようなことばとの出会いを期待し、そこから受ける御霊の祝福によって、以前にもまさる天国の味わいを感じとることを期待するがいい。



be3fa4a341ea331b82bc8d15a5a3a510_20160223231640175.jpg

神の家へ行くときには、こう云うことである。

「私は、帰路につくまでに、自分の思いを高めてくれるような何かを神から授かりたい。御霊とまみえ、あの天来の喜びで心を満たしていただきたい。

また、キリストが私の前に現われ、天来の光で私の周りを照らし、その導きの声、いのちを与える御声を聞かせ、私の目からうろこを取り去り、これまで以上にその栄光を見せていただきたい。

私は帰るまでに、主によって心を安息の光景に浴させ、御父の御前に連れて行っていただき、あの羊飼いたちのように、『自分の見聞きしたことによって、神をあがめ、賛美しながら』[ルカ2:20]帰らせていただきたい」と。



天的な勤めを行なえば行なうほど、魂は天的になる

神への賛美は、天使と天にいる聖徒らの勤めであり、また私たちの永遠の勤めとなるべきものである、、自分の祈りの中から、神への賛美を閉め出すことによって、いかに私たちが自分に害を与えているか、私たちは全く知っていない。

そうでなくとも私たちは、罪の告白や願い事にはすこぶる言葉数が多いくせに、賛美にはほとんど余地を与えないのが普通なのである。これがいかに自分に害を与えていることか。

読者よ、どうか心に留めてほしい。あなたの務めの中で賛美にもっと大きな場所を占めさせるがいい。罪の告白や願い事の種ばかりでなく、賛美をふくらませるための種をも常に用意しているがいい。

そのためには、あなた自身の欠けや足りなさに劣らず、神のいと高きといつくしみとを学ぶことである。犯した罪に劣らず、受けたあわれみと約束されているあわれみについて学ぶことである。

「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。感謝のいけにえをささげる人は、神をあがめよう。主をほめたたえよ。主はまことにいつくしみ深い。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。われらは、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげよう」*[詩33:1; 50:23; 106:1; 147:1; ヘブ13:15]。

この天の勤めにあれほど携わったダビデは、天の光に最も輝く魂を持っていたではないか。時に私たちは、モーセの歌、ダビデの詩篇を読むだけで奮い立たせられるではないか。

もしも私たちが、自分自身この勤めに習熟し、しばしば励むならば、どれほど燃やされ、奮い立たせられることであろう!












主を求めよ。お会いできる間に。

キッデルミンスターのリチャード・バクスター(その2)