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四国の山みち source

先日、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず」―詩篇16篇に啓示されているキリストの復活を黙想し歌う(ココ)」という記事の中で、私はスコットランド教会の信徒たちが歌う素朴な詩篇歌をVTRでご紹介しました。

すると今朝、さなえ姉妹からコメントがあり、このメロディーが、讃美歌404の「山路こえて」という曲と同じだということを教わりました。また「山路こえて」の日本語讃美誕生のいきさつにも一つのエピソードがあるということをお聞きし、調べてみました。

それによると、この日本語詞は、西村清雄(にしむら すがお、1871-1964)というクリスチャンの方が1903年に書いたものだということでした。

西村は当時、宇治島教会で奉仕しておられたアメリカ人の女性宣教師コーネリア・ジャドソンを助け、貧しい子供たちのための夜間教育に尽力していました。

その年の2月上旬のある日、教会での奉仕の帰り、西村はたった一人、法華津峠で夜を明かさねばならなくなりました。鉄道が開通していなかったのです。

「ああ、大洲までは五里もあるなあ、、」と彼は心細くなりました。と、その時、友人の三輪源造が紹介してくれたGolden Hillという曲のことがふいに思い出されたのです。

西村は、この歌の歌調にあわせ、「山路こえて、ひとりゆけど、、」と一句一句、詞を作っていきました。

一節できるごとに、歌ってみました。するとふしぎなことに先ほどまであったあの寂寥感が消え、「一人きりだけど、この山越えを楽しもう」と、そんな心のゆとりまで出てきたのです。

このようにして生まれたのが、下に挙げる歌詞です。

山路こえて ひとりゆけど
主の手にすがれる 身はやすけし

松のあらし 谷のながれ
みつかいの歌も かくやありなん

峰の雪と こころきよく
雲なき み空と むねは澄みぬ

みちけわしく ゆくてとおし
こころざすかたに いつか着くらん

されども主よ われいのらじ
旅路のおわりの ちかかれとは

日もくれなば 石のまくら
かりねの夢にも み国しのばん



最後の「石のまくら」というのは、創世記28章のヤコブの記述からとられたものでしょう。

自分に殺意を抱いている兄エサウの元から逃れ、ヤコブは、叔父ラバンの住む所に向かっていました。

法華津峠で一夜を明かさなければならなかった西村と同じように、ベエル・シェバを発ったヤコブもまた、その日の晩、「ある所」(創28:11)で一人夜を過ごすことになりました。

「ある所 a certain place」とあるので、そこはヤコブにとってなじみのない、茫漠とした場所だったのではないかと想像されます。

あるいは、そこがカランへの通過点にすぎない場所だったので、地名を特記する必要を感じなかったのかもしれません。(後の方の19節を読むと、「その町の名は、以前はルズであった」と書いてあります。)

自分は今、どこにいるのだろう。誰に、何に頼って生きていけばいいのだろう。

戻ることのできる家はもうどこにも存在しない。

かといって、前方にも何も見えない。
そこにあるのはただ漆黒の夜、夜、夜。

その夜空を天井にして、旅びとヤコブは石をまくらに横たわり、目を閉じました。

すると「彼は夢をみた」(創28:12)。

見よ。一つのはしごが地に向けられて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

「そして、見よ。彼のかたわらに立っておられた。」(13節)

そしてヤコブの傍らに立っておられた主は、彼に、この地を彼と彼の子孫に与えること、子孫が地のちりのように多くなり、地上のすべての民族が、彼と彼の子孫によって祝福されることを約束された後、次のことばをおっしゃいました。

見よ。わたしはあなたとともにあり、
あなたがどこへ行っても、あなたを守り、
あなたをこの地に連れ戻そう。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、
決してあなたを捨てない。
(15節)



この力強く、愛あふれる主からの個人的語りかけは、ヤコブが実家で家庭礼拝していた時でもなく、家族・友人に囲まれ、安定したわが家でくつろいでいた時に臨んだものでもありませんでした。

「わたしはあなたと共にいる。わたしは決してあなたを捨てない。」

彼がたった一人、先行きの見えない不安におののき、寂寥感にうちふるえるような夜の闇に横たわっていた――、その不安定さの極みの中において、ヤコブに語られたものでした。

そして眠りからさめたヤコブは恐れおののきつつ、その場所を、「ベテル(神の家)」と名づけたと聖書は記しています(19節)。

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」(16節)。


祈り
主よ、私たちもまた、法華津峠や、茫漠とした「ある所」にいるのでしょうか。そこで一夜を明かさなければならないのでしょうか。

「みちけわしく ゆくてとおし」と心弱まるその時、あなたがヤコブに語ってくださったあの個人的語りかけを、どうか私たちにもしてください。

あなたはこの所におられるのに、私たちはそれを知りません。苦難のただ中にあって、ここがすでに神の家であることを知りません。どうか私たちの心の目を開き、ベテルを顕してください。

死なれ復活されたキリストの御霊が、ベテルの栄光を私たちの内に啓示してくださいますように。イエス・キリストの御名を通してお祈りします。アーメン。




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