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リチャード・バクスターの記事を書き、さらにその当時の歴史を調べていた時、ふとした折に私は、17世紀のピューリタンの女性たちがノーメイク、ノーアクセサリーであったということを知りました。

彼女たちが唯一使用していた「cosmetics」は、石鹸だったそうです。1テモテ2:9-10や1ペテロ3:3-4等の聖句はもちろんそうですが、ピューリタンの教会が断固としてクリスチャン女性のお化粧に反対していた理由の根源には「神のみこころを敬い、受け入れる」という彼らの強い信仰があったようです。

つまり、神様は主権をもって私たち人間をお造りになられた。それゆえ、それぞれの個人は、神がお造りになられたそのままの姿を喜び、尊ぶべきである。しかしもし女性が、メイクアップをするなら、それはその実、神の創造されたありのままの自分の姿・かたちに満足できていないことを意味しており、従って、(間接的にではあっても)神のご意思に抗っていることになる、、と。

(もちろん、異性につまずきを与えない。派手さを避け、質素・つつましさを求めるといった理由もあったようです。)


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初代教会のクリスチャンたちが、当時の豪奢で華美なローマの美容・ファッション文化に真っ向から反対し、妥協することなく、クリスチャン女性たちにノーメイクを勧告していたことは歴史資料からも明らかですが*〔シリーズ4〕を参照してください)、ピューリタンもこの点で初代教会と同じ立場をとっていたことを知りました。

すると、私たちの心に疑問が生じてきます。それならば、、

どうして、現在のプロテスタント諸教会では、その教えがなされていないのでしょう。また、

いつ頃からその教えがなされなくなっていったのでしょうか。



1)と2)について、今私はまだ調べている途中です。

しかし、19世紀に書かれた幾つかの資料を読む中で分かってきたのは、少なくともこの時期までは、講壇で説教者たちが大胆に、女性のメイクやファッションのことについて説教し、世俗文化の流入に必死に抵抗していたということです。

例えばバプテスト教会のチャールズ・スポルジョン(1834-1892)は、次のように説教しています。

真理につく善良な女性たちは、頬紅を塗ったり、イゼベルのように流行を追って、髪を飾り立てたりはしない。こういった女性たちは、そのままの自然な美の内に安らいでおり、その意味で、昨日も、今日も、とこしえまで同じ美を宿しているのだ。

(The Sword and Trowel, vol. 4, pg. 91)



あなたの頬にほんのひと吹きでもチークをはたこうなどと思ってはいけない。そして血色が良いように見せかけたりしてはいけない。そのままのあなたの姿で、素直に来てください。

“Honest Dealing with God,” 1241, Lord’s Day Morning, June 20, 1875



真理は化粧をしない。頬紅をはたかない。もっとも自己を飾り立てていない時にこそ、彼女は真に光彩を放っているのだ。彼女は、虚飾や見せかけ、うわべだけの飾りを拒んでいる。彼女の光栄は彼女自身であり、彼女の美は、彼女自身の全き姿にある。だから、彼女には、けばけばしい装飾など必要ないのだ。

The Sword and Trowel, vol. 1, pg. 118



インドで50年以上、人々に仕えたエミー・カーマイケルは次のように書いています。


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服装

この世とその賞賛に死にます。
そしてあらゆる習俗、ファッション、ならわしに。
へりくだりに導く十字架を憎む、これら全てに死にます。」

こういった言葉はもはや古すぎるのでしょうか。私にはそう思えないのです。

十字架につけられた私たちの主の元に行き、主がこの事についてどのように考えておられるのか訊いてみましょう。

そしてもしこの分野においても、主が私たちに変化を望んでおられるのなら、、主のために、そして私たちがもう少し気をつけることによって、より多くの方々を助けることができるのなら、、。

そして、それにより、私たちの窓が、どんな地上的都市にも向けられず、ただひたすらエルサレムに向けられるのだとしたら、、

それなら、私たちはそれを拒むことなどできるでしょうか。

Amy Carmichael, God's Missionaryより




(その2)につづきます。


クリスチャン女性の「ファッション」が周りの人々に及ぼす影響について―アドニラム・ジャドソン宣教師の嘆願レター〔シリーズ2〕

山路こえてひとりゆけど