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北海道の自然


パスカルが言ふ。

「神を疑ひ、未来を疑ふと称する人たちは、真実自らさう疑ふのでなしに、他を真似て疑ふふりをしているに過ぎない。

疑ふことを見栄と心得ているのである。疑と不安とが見栄だといふ。なんたる見栄ぞ」と。

、、げに虚栄から不信を看板にし、懐疑を鼻の先にぶらさげている人が実に多い。

斯る人々に対して、余は難詰して問ひたい。「汝は真実、神を疑ふや?真剣に未来を否定せんとするや?」と。

おそらくは彼等の多くは愕然として身震いしつつ、答を曖昧にするのであらう。

小ざかしき哲学の片鱗を乳臭の口辺に漂わせて、誇りかにも神と永生とを否定し去らんと流行を追ふ若き男女よ。

汝は真に一切を空(くう)と確信せりや?

それは汝自身の確信なりや。汝自身の体験なりや。

☆☆

、、悔悟は義への憧憬と決意とを前提する。

即ち悔悟とは悪になじまずして義を追ひ求むるの心でなければならぬ。

然らば、悔悟とは自己の醜を識認するの心であるよりは、むしろ自己の義を何処かにか求めて得んと欲するの心、斯る精進をその特色とするものでなければならぬ。

さればこそ悔いたる心は神を仰ぐ。神の義を慕ふ。

卑僕の罪を赦して、なんじの義の裡(うち)に抱き給へと祈る。

見よ。ユダは主を売りて後、その罪を知り終に首をくくって死んだ。

なぜ彼は罪の赦しとその潔めとを求めなかったか。なぜ自己に失望し切っていたか。

ユダの誇りよ。人間の誇りよ。

その誇りが幾度か人を神より遠ざけ、彼の悔改を妨げ、而して彼を滅亡の淵に陥しいれた事であらう。

神よ、なんじはこの誇りをも赦し給ふや。我らを試みにあはせず、悪より救い出し給へ。

☆☆

「お前は罪を犯した。お前の汚れは最早、言い逃るべきやうもない。お前のやうなものは、もう駄目だ。悔いたと?それはお前の言い訳だ。

なぜお前は、お前の醜さを直視してそれをそのままに受け入れる事をしないか。お前は駄目なのだ。さう悟る事が真個の悔悟だ。お前自身に絶望せよ。」

――さういう声を心の奥にきくことがある。

然しそれは悪魔の声だ。

基督はさういう風に言われなかった。彼はいつも愛に溢れて、「来れ」とのみ呼び続けられた。

神の赦免は、単なる放免ではない。抱擁である。

罪を責めないだけでない、愛の接吻である。

人ひとりひとり、その残らずが彼の愛児達である。

さうだ。余は余自身に絶望してはならない。

罪人はその罪にのみ執着し、着目してはならない。

我等は義とせられなければならない。義を追ひ求めて休んではならない。

神の賜ふ義、それを被る迄は止まってはならない。

神よ、我等を潔くしたまへ。汝の義を以て義としたまへ。

斯して誠に汝の子たることを得しめたまへ。

☆☆

然り。人は本来、神の子であるべきである。神の子は義の子、光の子であるべきである。

罪と暗きと、それは人の本質ではない。

見よ。白き輝ける衣、我等のため備へられて彼処(かしこ)にあり。

兄弟よ、希望を失ふなかれ。兄弟よ、信頼を失ふなかれ。

兄弟よ、神は我等すべてのために輝きの聖国を備へ給ふのである。ハレルヤ。

☆☆

人生において一番貴い事は、正直であること、誠実真摯、真理を追うて倦まないこと、自己一個に屈託しないことである。

道の為めの勇猛心、それにも勝(まさ)って立派な力強い堂々たる偉観があらうか。

「もはや我、活けるに非ず。基督、我に在りて活けるなり。」

さう謂うことの出来たパウロの総身にはどんなにか力が溢れ、勇気が漲った事であらう。

自己に死なんとの野心の胸中に高鳴りするを覚える時、なんだか飛び出して天下に絶叫し度いやうな勇奮を余も感じる。

余の野心はこれ以外にない。あらしめたくない。

己を全き献物として神の聖壇に上すこと、真理の為めに一切の私を投じ尽して了ふ事、余はこれ以上の偉業を考へ得ない。

余はこれ以上の野心を持ち得ない、又持ち得度くない。



三谷隆正、『問題の所在』(「感想と祈念と」)より


伝道真髄―三谷隆正

野の花、主のこころ