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デンマークの国王パレード、18世紀


いざ出発


さてバウツェンでツィンツェンドルフ伯に送り出されたレオナルドとデイヴィッドは、デンマークの波止場に向け、徒歩で元気よく出発しました。

セント・トーマス島はデンマーク領であり、島行きの船もコペンハーゲンから出ていたからです。

大工と陶器師の若者二人―。

リュックの中には着替えの服が数枚と30シュリングの硬貨きり、他には何も入っていませんでした。

また二人の若者は、「すべてのことを、イエス・キリストの御霊の内に行ないなさい」という指示以外、ツィンツェンドルフから宣教ガイダンスらしきものは他に何も受けていませんでした。

それだけではありません。セント・トーマス島がいかなる社会的状況なのかについても彼らはほとんど情報を持っていませんでした。

また彼らの生活をサポートする団体や組織もありませんでした。

こういう中で勢いよく飛び出していく若者たちは、慎重な人々の目に、あまりにも「無鉄砲」「無計画」と映るのかもしれません。

このような若者たちは、「情熱」と「無謀さ」という二つの翼をはばたかせ、御名によって勢いよくダイビングします。

しかしその後はもう大変です。必死に手足をばたつかせながら、前に向かって泳ぎ前進していくしかありません。波止場はもう視界から消え、足をついて一休みする「床」もありません。嗚呼!とにかく「前進するのみ」なのです。


デンマークで阻まれる


当時、コペンハーゲンにはプロテスタントの宣教師養成カレッジがすでに存在していました。フレドリック4世によって設立されたこの学校からは、国費で「宣教師」が送り出されていました。

しかしここでいう「宣教師」とは、実際には、植民地政策の一環としてのキリスト教化を促進させる「政府の役人」であり、「植民地官僚」のことを意味していました。

しかし今ここに、国教会のお墨付きもなく、神学教育も受けたことのない二人の若者が、「宣教師としてセント・トーマス島に行きたい」と彼らに渡航券を求めているのです。

たちまちの内に、二人は街中の物笑いの種になりました。

王の侍従であるフォン・プレッツは笑いをかみ殺しながら、二人に尋ねました。

「諸君、君たちはいったいどうやって生活を営んでいくつもりなのかね?」

「僕たちは働きます。」デイヴィッド・ニッチマンが答えました。「奴隷たちの間で、共に奴隷として。」

「しかしだね。それはどだい無理な話だ。まず許可が下りない。白人が奴隷として働いたという前例は今までないのだから。」

「えーと、それでは、僕は大工ですから、大工業をしながら頑張ります。」

「それじゃあ、隣にいる陶器師くんはどうなるのかい?」

「彼は僕の大工仕事を助けます。」

「そんなこと言ったって、まったく埒があかない!」侍従はあきれて叫びました。

デンマーク西インド会社のディレクター達はすげなく彼らの渡航を拒絶しました。裁判所も西インド会社側につきました。


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デンマーク西インド会社の社旗


しかしそんな状況下にあり、主は何人かの人々の心を動かしてくださいました。

その中の一人が王女のアマリア妃でした。彼女は二人を憐れみ、いくらかのお金とオランダ語聖書を贈ってくれました。そのおかげで彼らは大工道具を購入することができたのです。

また王の献酌官はセント・トーマス島行きの船を見つけ、二人のために手配してくれました。


セント・トーマス島へ


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西インド会社の作成したセント・トーマス島地図


船長は彼らを大工として雇い、二人は船内の収納室を作りました。こうして彼らはついに西インド諸島に向かって出発することができたのです。

これが、プロテスタント史上、記念すべき初の宣教師たちの受けた待遇であり、出発でした。人の目には卑しく、小さく、みずぼらしく見えた貧しき僕たちの上には、でも確かに主の御手がありました。

「この子を行かせよ。主は彼と共におられる。」


その4につづきます。


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