はじめての実


ロレンゼンというオランダ人植民者に雇われ、レオナルドとデイヴィッドは新築工事を手伝いつつ、そこに寝泊まりを始めました。

そしてさっそく、島をめぐりながら、奴隷アンソニーの姉アンナを探し始めたのです。

はたして島の南部プランテーションに彼女はいました!

彼女は自分にやさしく話しかけてくる二人の白人に驚き、さらに、ヨーロッパに連れられていったきり、行方の分からなくなっていた弟アンソニー直筆の手紙を見て、驚愕の余り言葉を失いました。

「私たちは、あなたにすばらしい救い主イエス・キリストのことを伝えに来ました。」

レオナルドはドイツ語とオランダ語とジェスチャーを交えながら、アンナにキリストの福音を語りました。(*セント・トーマス島の奴隷たちはオランダ・クレオール語 Dutch creoleという混成語を話していました。)

アンナはすぐさま家族や友だちを呼び寄せ、二人の語るキリストの愛の言葉にじっと聞き入ると、手を叩き、喜びを表現しました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

マタイ5:3,4



レオナルドは、ゆっくりとシンプルな言葉を使い、神の御子について、そして御子の流した血潮と御傷について彼らに語りました。すると、アンナだけでなく、アンナの夫のゲルド、兄のアブラハムも、子どものような素直さをもって神の小羊に心を明け渡したのです。

しばらくした後、アンナは言いました。

たとい全世界を手にいれることができるとしても、もしもそれによって救い主イエスから引き離されるのだとしたら、私は迷うことなく全世界を捨てようと思います。



プランテーションでの過酷な労働の間にもアンナの祈りは絶えることがありませんでした。

日々の労働のため私には落ち着いて祈りを捧げる時間が与えられていません。でも私の心は絶えず、絶えず、救い主イエスの御名を呼び続けています。このようにいつも主と一緒にいることができるよう御計らってくださった神様に私は感謝しています。




死にゆく奴隷たちを看取って


4月17日には、同伴してくれたデイヴィッドが別の働きのためヨーロッパにいったん戻ることになりました。

島の奴隷たちの多くは、マラリア、破傷風、天然痘、癩などの病に侵され、死の淵をさまよっていました。

レオナルドは「魂にキリストの福音を伝えるためには、あなた自身がまず、それらの人々のただ中で生きる必要がある」というツィンツェンドルフ伯の言葉を思い出し、奴隷たちのあばら屋の近くに移り住み、彼らの看病を始めました。


レオナルド、病に倒れる


7月11日、ハリケーンがセント・トーマス島を襲いました。地下水や井戸のない島はとたんに干からび、多くの奴隷たちは飢えと渇きから命を落とし始めました。

その頃、レオナルド自身、体にほてりと気だるさを感じ始めるようになっていました。そのほてりはやがて高熱となり、起き上がることもできなくなった彼は、一人もだえ苦しみました。(*おそらくマラリア熱だと思います。)

さらに11月、隣のセント・ジョン島で奴隷たちの反乱が起こりました。

反乱の余震はセント・トーマス島の黒人の間にも及び、恐れた白人領主側は、さらなる拷問と極刑をもって、この不穏と反乱の気運を鎮めようとしました。

今や島全体がカオスとなっていました。誰もが明日のことを恐れ、希望を失っていました。

しかし、そんな中にあって、一人、また一人と主は砕かれた魂を、病床にいるレオナルドの元に送ってくださいました。

こうして高熱に苦しみハンモックの中に横たわりながらも、レオナルドは魂の救いを求めてくる黒人たちに、福音の希望を語りきかせ続けたのです。


レオナルドとモラヴィア宣教団のその後


一命をとりとめたレオナルドはその後も、誠実に奴隷たちの間で仕え続け、西インド諸島における最初の「種蒔き人」となりました。

その後、彼は教会の要請でドイツのヘルンフートに戻り、今度は、牧者として、何百人という若者を世界に遣わし彼らを育成する「メンター」の働きを担うよう召されました。

1734年には、レオナルドに続く第二群目の兄弟姉妹が、西インド諸島にたどり着きました。

親友のトビアス・レウポールド兄、デイヴィッド・ニッチマン兄、マティアス・シンドラー兄、マティアス・ミクシュ兄、カスパー・オエルシュナー兄、ウェンツェルとデイヴィッド・ウェーバー夫妻、ティモテウス・フィードラー一家、マーティン・シェンク兄、ジョージ・ウェーバー兄、ヨハン・ボーン兄、マティアス・クレムサー兄、クリスチャン・ネイサー兄等



しかし天候やウイルス、厳しい生活環境ゆえ、命を失う兄弟姉妹が続出しました。

9月4日にはクリスチャン・ネイサー兄が死に、翌月にはウェーバーの妻が召されました。二週間後には、マティアス・クレムサー兄、エリザベス・ウェーバー姉、マティアス・ミクシュ兄が亡くなりました。翌年の1月には親友のトビアスも亡くなり、第二群の中ではわずか七名だけが生き残りました。

しかしヘルンフートの教会では、その後も献身する若者たちが後を絶たず、さらに多くの勇敢な若者たちが西インド諸島に遣わされていきました。

(この期間におけるモラヴィア兄弟姉妹の苦難と勝利の記録については、Peter Hoover, Behold the Lamb: The Story of the Moravian Churchの第12章Into All The Worldをお読みください。here


おわりに


1768年までに、ヘルンフートから遣わされた兄弟姉妹の内、実に79名もの若者たちが西インド諸島で命を失いました。しかし主に捧げられたこれらの命は、かの地で苦しむ奴隷たちの間に永遠の実をもたらすものとなりました。

これらの期間を通し、セント・トーマス島だけでも実に9000人近い奴隷たちが、イエス・キリストの救いの御胸に抱かれていったのです。しかもそれは始まりにすぎませんでした。


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イヌイット語をマスターし、エスキモーの人々に福音を伝えるJens Haven兄、1764年、Nain, Labrador

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北米の先住民に福音を伝えるDavid Zeisberger兄。
彼は「Delaware族への使徒」と呼ばれ、先住民インディアン諸語の翻訳も行ないました。


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Miskito Coast(現:南米ニカラグア)にも、モラヴィア兄弟団の若者たちは福音を伝えに出て行きました。


あの時、コペンハーゲンの波止場で「無学で愚かな」二人の若者をあざ笑った人たちは今どこにいるのでしょうか。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。1コリント2:27-29



また私はレオナルド青年の信仰や生き方を通して、「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」(1コリ9:22b)という御言葉がまことに然りであることを学びました。

アフリカ人の奴隷にキリストの愛を伝えるために、自らも奴隷となる覚悟で現地に行き、彼らのただ中で生き仕えたレオナルド・ドーバー。

天より来、「人となって」、「暗黒と死の陰にすわる」私たちの間に住まわれた(ヨハネ1:14a、ルカ1:79a)イエス・キリストの御霊がこのしもべの内に宿り、生きて働いていたのだと思います。

そしてこの御霊は不滅です。

ですから、たといこの世やこの世に属するものが巨大な悪と罪のシステムの中で堕落していこうとも、背教していこうとも、御霊は永遠の力をもって個々の信仰者の心に働きかけ、これからも第二、第三のレオナルドを各地で起こしてくださるでしょう。


マラナタ、マラナタ、
主イエスよ、来てください。


わが主の来られる道を備えよう。
十字架を負って、地の果てまで行こう。


わが主の栄光、地をおおう時、
我、地の果てで 主を迎えよう。


主が来られる日までこの道を歩む。
険しい道 十字架を背負い


この道の果てで 愛する主に会える。
栄光のわが主 我を迎える。


主の来られる日まで 立ち上がり 進み行く。
主の栄光あふれる日 立ち上がり 賛美せよ。



ーおわりー


主要参考文献
J.E.Hutton, A History Of The Moravian Church, Second Edition, 1909
Peter Hoover, Behold the Lamb: The Story of the Moravian Church, 2005


↓モラヴィア兄弟団についてのおすすめVTR(とても励まされます!)




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悲しみの中にある慰め――病にある友へ(G・テルステーゲンの書簡)

レオナルド・ドーバー青年、西インド諸島へ行く(モラヴィア宣教団、18世紀)その4―黒人プランテーションの現実

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