そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった
ヨハネ7:43



The Scandal of Particularity(=特殊性のスキャンダル)という言葉があります。これは、キリスト教会内外で出される次のような疑問のことを言っています。

「なぜ全世界の救い主が、ある特定の時代の、特定の場所に一人の人間として来なければならなかったのか?」

「なぜ――ナザレのイエスという――1世紀に生きた特定のパレスティナのユダヤ人が、受肉した神であり、世の救い主となる必要があったのか?」

さらには、「なぜこのイエス・キリストだけが御父に至る道である必要があるのか?」

福音の啓示するこの「特殊性(particularity)」、十字架の言の特殊性は、これまでも多くの知識人にとってのさまたげの元となってきました(1コリ1:22-24)。

このテーマに関し、最近、考えさせられる記事を読みました。

The Scandal Of Particularity: Facing Jesus In A Postmodern Age(「特殊性のスキャンダル:ポストモダン時代にイエスに向き合う」)



この記事の中で筆者は次のように言っています。

――最近の「宗教間の対話 Inter-faith」「文化相対主義 cultural relativism」という一連のポストモダンの流れの中で、従来の聖書信仰のクリスチャンたちが徐々に、(キリストをはっきり明かさない)単なる有神論者へと移行していっているように感じる

そして、彼らは周りの人に嫌われないようにと、「荒削りの」十字架の言を極力避け、その代わりに無難であいまいな宗教用語を使いつつ、その場をなんとか取り繕おうとしていると。

つまり、彼らは「愛に基づく生を活きる」という言葉でカバーしつつ、イエスに関する具体的かつ特殊な言葉をなるだけ避けようとしています。



そして筆者は次のように私たちに問いを出しています。

私は自分の友に、率直に、そして裁き心なく、次のように尋ねたいのです。

「あなたは今、自分の信仰の立ち位置は変わっていないと必死に言い聞かせているかもしれませんが、その実、キリストを、そして主の死と復活に対する信仰を離れてしまったのではないでしょうか。」

「本来のキリスト中心の言語を、(あいまいな)「神」の言語に置き換えつつ、あなたは今や、有神論(Theism)へと逆行しようとしているのではないでしょうか。」

イエスは、高尚な生涯を送った一人の模範に過ぎないのでしょうか。

イエスは、数ある選択肢の一つに過ぎなくなってしまったのでしょうか。

それとも、初代教会のクリスチャンが力強く証したように、受肉した神なのでしょうか。

今流行りの思想は私たちにこう言います。――(イエスに関する)こういった特殊性のスキャンダルこそ、キリスト信仰の誤りを明らかにするポイントだと。

このようなグノーシス的福音は、さまざまな形を取りながら、私たちの信仰の敵や尋問官たちの疑いをさらに増し加え、教会に通う信徒たちの心を操作しようとしています。



クリスチャンはこの2000年余り、それぞれの時代精神(the spirit of the age)および世俗思想と闘ってきました。

初代クリスチャンたちは、グノーシス主義に対して闘い、17-18世紀のクリスチャンたちは理神論に対して闘いました。また前世紀のクリスチャンは、共産主義や実存主義と闘いました。

それでは今、私たちは何と闘っているのでしょう?私たちの「敵」はどこにおり、どこを突いてきているのでしょうか。使徒パウロは、「空を打つような拳闘はしていない」(1コリ9:26)と言っています。

私は自問しています。私は空を打つような拳闘をしているのでしょうか。闘うべき時代精神を紛うことなく捉え、把握しているのでしょうか。それとも私はピンポイントのずれた戦いをしているのでしょうかと。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。エペソ6:11




相対主義か、それとも神の絶対真理か?


福音主義キリスト者の間においてでさえも、現在、「聖書が客観的かつ絶対的な真理である」という共通理解ができなくなっているということを述べた後、フランシス・シェーファーは次のように言っています。

あるいは次のように言い換えることもできるだろう。

文化というのは、常に聖書によって判断・評価(judge)される必要があるのであって、聖書が、私たちを取り囲む文化に自らを順応させなければならないというのでは毛頭ない。

初代教会は、当時のギリシャ・ローマ文化に対してそのような姿勢で臨んだ。宗教改革期の教会も、中世末期に流入してきた当時の文化に対してそのような姿勢で臨んだ。

また歴代の偉大な信仰復興者たちも例外なく、その時代を取り巻く世俗文化に対し、同様の姿勢で臨んでいたことを忘れてはならない。そしてキリスト教会は、歴史における各要所において、その姿勢を貫いてきたのである。

Francis.A.Schaeffer, The Great Evangelical Disaster



主よ、私たちは混沌とした世界に置かれており、この世の君によってコントロールされた時代精神が、巧妙な形をとって、私たちの教会にも忍び込んできています。

どうか腰に巻く「真理の帯」(エペソ6:14)を私たちに与えてください。何を守る必要があり、何に対して闘っていかなければならないのか、その一つ一つを教えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について(フランシス・A・シェーファー)前篇

バックパッカーの若者たちを愛して(ベン兄の証しのつづき、オーストラリア)