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デミ・ムーア、映画『ゴースト/ニューヨークの幻』(原題:Ghost、1990年)などに出演


中学生の時、はじめてショート・ヘアー姿の女優デミ・ムーアを見た時、「えっ?それってありなの?」と奇妙な感じを受けました。みなさんはどうでしたか?

でも、見慣れていくうちに、今度はそれが逆に、クールでキュートな感じに思われてきたのです。

そのうち街でもデミのような髪型の女の子たちを見かけるようになり、そうすると、ますます自分の中で、「ショートの髪=クールでかわいい」という意識が強くなっていきました。

いわゆる美意識・価値観の転換です。


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そして同様の価値観の変異は――女性が牧師として講壇に立つという20世紀の新現象をめぐり――福音主義教会内で、現在進行形で進んでいっています

1950年代にアメリカのもっともリベラルな教会で、最初に女性が牧師として叙任された時には、多くのクリスチャンがあっけにとられていました。

そして「なぜ聖書に書いてある神の掟をふみにじるのか?」と嘆き悲しみました。

しかしデミ・ムーアのショート・ヘアーと同じで、これも、時が経つにつれ、最初のあのショックが薄らいでいき、それが教会やキリスト教メディアで「おなじみの光景」として繰り返し繰り返し、目の前に映し出されるにつれ、(意識的にも無意識的にも)私たちの価値観・見方に変化が起こされていきます。


福音主義フェミニズムは、リベラリズムへの新しい街道?


日本福音同盟、初代理事長の泉田昭氏は、福音主義(Evangelicalism)を自由主義(リベラル)神学に対立するものだと定義しておられます。(『日本の福音派』)

つまり、「福音主義」と「リベラリズム」は、水と油、犬と猿、呉と越、ハブとマングースの関係にあるのです。

また、ウェイン・グルーデム氏は、リベラリズムを、「聖書が神の言葉であるということに対する全き真実性を否定し、私たちの人生における、聖書の、ユニークにして絶対的な権威を否定する思考システム」と定義しています。

20世紀初頭、プロテスタント教会内に流入してきたリベラル神学の流れに抗し、ジョン・グレッサム・メイチェン(1881-1937)などの聖書信仰のクリスチャンたちが立ち上がりました。そして福音主義における正当な信仰を守ろうと奮闘しました。


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その意味で、私たちはリベラリズムと必死に闘い続けたこういった先人たちに大いに負うところがあると思います。

ところが、です。これだけの闘いをして勝ち取ってきた私たちの信仰の領地が、今また、リベラリズム再襲の危機におかれているのです。


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ウェイン・グルーデム著 「福音主義フェミニズムはリベラリズムへの新しい街道か?」


現在、こういった流れに危機感をもつクリスチャンたちが検証しているのが、福音主義教会内に流入してきた「フェミニズム」(別名:対等主義 egalitarianism)と、「リベラリズム」との間にみられる親和性および相関性についてです。


7つの段階


これからみなさんとご一緒にこのテーマについて考えていきたいと思っていますが、それに先立ち、まず、現在、客観的に見られる「福音主義フェミニズムの漸進的7段階」を下に挙げようと思います。(Is Evangelical Feminism the New Path to Liberalism?より)


段階1) 聖書が誤りのない神の言葉であることを否定する。


段階2) 女性を牧師として是認する (*註1


段階3) 結婚における男性のリーダーシップ(headship)に関する聖書の教えを破棄する。


段階4) 女性の牧師叙任に反対の声を挙げる牧会者たちを教団から締め出す。


段階5) 「あるケースにおいては、同性愛行為は、倫理的に妥当なものである」とする。


段階6) 同性愛者を牧師として是認する。


段階7) 同性愛の牧会者を、教団内のトップ(high leadership)に任命する。




註1)
「女性を牧師として是認する」の部分についてですが、一部のペンテコステ派やクウェーカーなどの女性牧会ミニストリーは、必ずしも、フェミニズムに起源を発していないのではないかと考えています。

例えば、アッセンブリー教会は、1914年という早い段階で、女性の講壇説教を認める決定を下しています。これらの決定の背後にあったのは、ウーマン・リブへの迎合精神というよりはむしろ、「聖霊の賜物」に関する教団独自の聖書解釈が大きな要素となっていたのでしょうか。

しかし同じペンテコステ派内でも(つまり、聖霊の賜物に対して同じような聖書解釈をしているグループ内でも)、2016年の今日に至るまで、女性牧師を認めていない教団もあります。この差は何なのでしょうか。なにが二つの陣営に決定の違いをもたらしているのでしょうか。

私は個人的に、前者の立場と、古代のモンタヌス聖霊運動には、(教会内での女性リーダーシップを認めるという点で)なにがしかの類似性があるのではないかと考えていますが、この推測はもしかしたら間違っているかもしれません。

もしもどなたかペンテコステ派内のこういった一連の動き、歴史と変遷、および聖書解釈に関して何かご存知したら、ぜひ情報提供してください。よろしくお願いします。




2016年3月21日 追記
上の註のところで、私は、次のような素朴な疑問について書きました。


「アッセンブリー教会は、1914年という早い段階で、女性の講壇説教を認める決定を下しています。これらの決定の背後にあったのは、ウーマン・リブへの迎合精神というよりはむしろ、「聖霊の賜物」に関する教団独自の聖書解釈が大きな要素となっていたのでしょうか。

しかし同じペンテコステ派内でも(つまり、聖霊の賜物に対して同じような聖書解釈をしているグループ内でも)、2016年の今日に至るまで、女性牧師を認めていない教団もあります。この差は何なのでしょうかなにが二つの陣営に決定の違いをもたらしているのでしょうか。」

実はその後もこのテーマにおけるアッセンブリ―教団の聖書解釈がどのようなものであるのか気になっていて、あちこち調べていました。

そして先日、ジョージ・ウッド氏というアッセンブリ―教団の委員を務めておられる方が書いた記事を読むことができました。感謝です。

GEORGE O. WOOD, Exploring Why We Think The Way We Do About Women In Ministry

この方の解釈(*これが教団の公式見解なのか、それとも委員であるウッド氏の個人見解であるのかは分かりません)によれば、女性牧師(説教者)叙任が正当化される鍵となる聖句は、

1)ヨエル2章の成就としての使徒2章
2)ガラテヤ3:28


の二つであり、1テモテ2章、1コリント14章などの他の聖句は、ヨエル2章と使徒2章の光に照らして解釈されなければならない、ということでした。

そこから分かったのが、ウッド氏の見解の中では、ヨエル2章・使徒2章が、1テモテ2章・1コリント14章をgovern(統治)するという、「聖句間における優先順位・ヒエラルキー構造」があるということでした。


ヨエル2章・使徒2章 > 1テモテ2章・1コリント14章


しかしここで生じる私の疑問は、そのヒエラルキーや優先順位を決める判断の尺度はどこに(誰に)あるのか、ということです。

聖句Aを聖句Bの上に優先させ、聖句Bの意味を変形・無効にすることが正当化されるには、やはりそこに聖書の権威がなければならないと思います。そして私の知る限り、聖書はそのような権威を、被造物には与えていないと思います。

また、もう一つの鍵とされる、ガラテヤ3:28についてですが、これは、ご存知のように、福音主義フェミニズムを支える「マグナ・カルタ」としての役割を担っている重要聖句です。ガラテヤ3:28についてのフェミニスト解釈については次の記事の中で触れました。

「相補主義」と「対等主義」について――福音主義教会を二分する二つの視点 【ジェンダー問題】(1)

(*しかし、ウッド氏ご自身は、ガラテヤ3:28を、こういったフェミニストの視点で解釈している訳ではありませんでした。)

☆☆

ウッド氏の論調からいっても、そこに「フェミニズムに対する同調」といったものはないように思われました。1906年にロサンゼルスのアズサ・ストリートでリバイバルが起こり、ペンテコステ派が誕生した際、はじめて選出されたelderの半分が女性だったそうです。

こういった一連の流れを見ると、やはり創成期のアッセンブリ―教団のordination of womenは、フェミニズムとは一線を画した動機と聖書解釈があったと思わざるをえません。

しかし、現在の米国アッセンブリ―のさまざまなサイトを読むと、「女性牧師」を支持する多くの方々の論調には明らかなフェミニズム色が出ています。

入り口こそ違ったものであれ、やはり時代のイデオロギー精神というこの大きな濁流は、こうした細流を次々と飲み込みつつ、あらゆる領域に浸食していっていると思います。


―追記おわりです―






「リベラリズム」と、「女性牧会職についてのフェミニズム的見解」との間にみられる相関性について――アメリカ福音教会の女性牧師是認の歴史から見えてくるもの

敷物(The Mat)―ハインリッヒ・スソーの信仰詩