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私は一キリスト者として、どのように神、人間、歴史、世界をとらえ、考え生きるべきなのかという点にとても関心を持っています。

そして人との交わりの中においても、相手のものの見方や考え方、世界観にいつも並々ならぬ注意と関心が寄せられます。

「この方はなぜこのように考えているのだろう?どのような経緯でこのような視点を持つようになったのだろう?」と純粋に相手に尋ねたくなるのです。ですから、私につかまったら最後、インタビュー記事を書かれるものと覚悟しなければなりません(笑)。

フランシス・A・シェーファーが、"The Lordship of Christ in the totality of life"(生活・人生すべての領域におけるキリストの主権)ということを言っていました。

日常のごくごく小さな行ないから、人生観・世界観といった大きな枠組みに至るまで、人生のあらゆる生の営みと領域において、キリストが私たちの人生の中心にいて、主権者として治めてくださること、そのために自分を日々、完全に主に明け渡していくこと――。

こういった一連のプロセスが御霊の導きの下に行なわれていく時、私たちは日々内側から造り変えられて新しくされていくのだと思います。

次の記事でご紹介するエッセーは、キリスト者の世界観についてのものです。

著者は、神の主権と摂理を信じる私たちクリスチャンの歴史の見方のことを、「超越論的歴史観」と呼んでいます。

一方、それに対立する見方は、「内在論的歴史観」です。

ダーウィンの進化論や、マルクスの共産主義も、この「内在論的歴史観」に当てはまります。いえ、それだけにとどまらず、現在、私たちの周りにあふれているこの世の世界観は、この内在論に終始しているように思われます。

「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2a)という神の言葉は、私たちの世界観にもまばゆい光とメスを当てるものだと信じます。

主よ、どうか、あなたが世界をみるその視点で、私たちもこの世界を見ることができますよう私たちの心の目を開いてください。


(その2)に続きます。
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クリスチャンと世界観(その2)―歴史をみる観点―

神の庭の中で―ヨハネス・タウラーの信仰詩

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