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神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。

「わたしはアルファであり、オメガである。」 

黙1:8





「内在論的歴史観」と「超越論的歴史観」

――近世歴史観の再検討―― (三谷隆正)




ルネサンス以後の西洋近世と、それ以前の西洋中世とを区別するものは何かといふと、思想史的に一番著しいものは、いはゆる人文主義または人間主義の興起であるといってよいであらう。

それまでの西洋中世は、思想的に、また社会的にキリスト教会の圧倒的影響のもとにあった。

1302年11月、教皇ボニファティウス8世は、有名なる教書Unam Sanctamを発して、いはゆる両剣説(theory of two swords)のドグマを主張した。


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カトリック教権


すなわち、教権と政権とふたつながら、教会が神から委託されたものであって、教権は教会みずからこれを執り、政権はこれを俗世君主に託して、教会のために執り行わしめるのであるという。

ダンテはこの教皇と同時代の人で、かれの『神曲 地獄篇』の中には、この教皇に対する、痛烈なる批判が用意されてあるが、そのダンテの君主論といえども、教皇の優越的権威を認むることにおいて、ボニファティウス8世の教書と趣旨を異にするものではなかった。


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ダンテの『神曲』

これが中世の性格である。すなわち、あくまで教会中心の、神中心である。

☆☆

然るに、ルネサンスにおけるヒューマニズムの風潮は、神中心より転じて人間中心、教会中心をやめて政権の「教権からの独立」を唱道するものであった。

古典の復興と学芸の隆昌とは要するに、神学に代へて人間的学を盛にしたといふことである。

また政治的には、いはゆる君権神授の説が興って、教会の二権説に反抗し、終には、英国のヘンリー8世のやうに、君主が教会のことについてさへ、最高の決定権を要請するやうになった。


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ヘンリー8世


これを、Erastianism(*16世紀スイスの神学者エラストゥスの政教説)といふ。

要するに、これ人間中心、現世中心の思想である。

これがルネサンス以後、現代に至るまでの思想的性格である。

近代における個人主義、自由主義、社会主義等、いづれも、人間とその現世的生活を重視するがゆえの主義主張である。

☆☆

近代におけるこの人間中心主義は、また一面においては、人間的理性による自給自足主義である。

なぜかといふと、信仰とその超理性的権威が支配した中世においては、学的にも、実践的にも、超越的・没理的権威をもって決定せられることが多かったけれども、近代における眼醒めたる理性は、一切の超越的・没理的権威を否認して、人間の理性とそれに内在する原理によってのみ、一切の問題を解明しようとした

昔は、「神学のはしため」と呼ばれた哲学・科学が、今は独立自存して、自給自足、あくまで「理性のみの権威としよう」とするに至った。

即ち、超越的原理を禁忌して、専ら内在的原理にのみ拠ろうとするものである。

この点に即していへば、中世人の世界観は、超越論的であり、近代人の世界観は、専ら内在論的であるといふことができる。

☆☆

この近代的「内在論的世界観」の最も代表的なものが、進化論とヘーゲルの歴史哲学であると思ふ。


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それは要するに、実在の根拠と、生成流転の動因とが、この世界に内在すると考へ、自然と歴史とにおける一切の生滅が、内在的要素の自生的発展に他ならないと考へるものである。

近代の自然神学・史学・哲学みな専ら、この内在論的立場にたつものである。さうしてそれは学として当然なことでもある。しかしこの問題にふれることは、ここではやめておこう。

だが、内在論的に歴史を観るとなると、歴史の実質を規定するものは、一に、人間かれ自身の内在的諸契機でなければならぬ。

人間とその社会とのうちに、内在または潜在する萌芽があって、それが発展ないし進化する。その間の諸葛藤が、歴史の実質をなすものでなければならぬ。

しからば人間とその社会とのうちに、いかなる内在的萌芽があるか?

☆☆

ホッブス(1588-1679、*イギリスの政治思想家)は、利己心、「利我」対「利我」の闘争しかないといふ。

クロポトキン(P.A.Kropotkin,1842-1921、*ロシアの政治思想家、アナーキー主義の理論家)は、「利己心ばかりでない、生物には、相互扶助の本能がある」といふ。

曰く「ただ悪しき環境が、本来の善性を阻(とど)めているのだ。環境を良くしさへすれば、人間はもっと仏心を発揮する」と。

マルクス一派の社会主義者達も、階級闘争なき社会到来する時、人類は直に平安と幸福とを享受することができると期待している。


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社会主義者たちの描いたユートピア


しかし人間は果たしてそのやうな善性を持っているであらうか。環境さへ良ければ、それで仏心を発揮するであらうか。

フランスのルソーは、人間天賦の「野生の善」を信じて、しきりに「自然にかへれ」と唱道し、自然人を解放せよと主張した。

しかし英国のホッブスは、人間天賦の野生の悪にして豹狼の如くなるを信じたるがゆえに、清教徒(ピューリタン)達の民主的自由擁護に反対して、専制主義的強権政治よりほかに、安民の道なしと主張した。


ルソーとホッブス
ルソー VS ホッブス


歴史家は、評して言ふ。「フランス革命の結果は、ルソーの性善説『非』にして、ホッブスの性悪説『是』なりしことを明証した」と。

☆☆

今は歴史の転換を叫ぶ声が強い。

現代世界は、確かに一大転換期に臨んでいる。然し、その転換によって如何なる新しきものが期待され得るか。

内在論的歴史観を徹底すると、歴史は人間に内在する既存の要素の発展でしかあり得ない。

然るに、発展は成長であり得るけれども、創造ではあり得ない

創造とは全く新につくることであって、既存の萌芽の展開に止まるものではない。

随って、内在論的歴史の中に、真に新しきものの生起することを否認しなければならぬ

昔、イスラエルの賢者は歎じて、「日の下に、新しきものあらざるなり」(伝道之書1:9)と言った。

ストアの哲学は、特性の自給自足を徹底したる合理主義の哲学であったが、極端な定命論を奉じて、「歴史は、一定の内容を、一定期間ごとに反覆する、周期的くりかへしごとに他ならぬ」と断ずるものがあった。


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それは内在論的歴史観を徹底せるものであった。

☆☆

しかしもし、歴史が単なるくりかへしごとでなく、歴史の転換が、「真に新しきものの創生、または創造」を意味するものならば、そこにはまた、全く新たなる要素と力との添加を必要とする。

真に新しきものが更に外来的に添加せらるることなくして、真に新しきいのちが新たに創造せらるることはできない

若ししからば、歴史を支配し形成するものは、歴史に内在する既存の力源だけではない筈である。

ある超越的・外来的なるものが時々あって歴史に干渉し、歴史を変え、また動かすものでなければならない

そうでなければ、歴史は要するに旧きもののくりかへしに過ぎない。ここに宗教的な超越的歴史観の理由があるのである。

☆☆

キリスト教は、世界歴史におけるキリストの事業において、世界歴史への神の直接的干渉を見る。

そしてここに神による超越的添加真に新しきものの創造的施与を見出す。

歴史はここで全く新たな発足をなしたのだと見る。さうして同じやうに、全く新たなるものが将来において歴史の中に生起せしめられるであらうと期待する。

しかり、さうした新しきものの超越的添加を時々刻々に実見している。

殊に、人の心の奥深きところにおいて、真に新しき力の、全く超越的・外来的なる施与を経験しつつある。

☆☆

かくして超越的施与の期待を根拠とすることなしに、歴史の将来に光明を見ることが出来るであらうか。

内在論的歴史観だけで、人類の将来に希望をかけることができるであらうか。

内在論的世界観の代表ともいふべきストアの哲学は、つひに光明を捉へ得ずして、自殺是認の極端まで往ってしまった。

現代の知性人の内在論的世界観といへども、ストア的な傍観より以上に積極的に人生と歴史とを肯定し得ているものは少ない。

大多数は、要するに傍観である。

さういふ傍観が一世を風靡するに至る時、暴力は時を得顔に横行する

ローマ帝国衰亡の因は、さういふところにはぐくまれてをつた。


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ローマの崩壊

☆☆

現代は、古代ローマより以上に、重大な転換期に立っている。

この転換期の指導者として歴史に新しき生面を拓き得る者は、おのれみづからまた、真に新しきいのちにつながるものでなければならぬ

さういふ新しきいのちは内在的なものではなく、超越的なものであると思ふ。

さうでなければ、真に新しい力は得られない。


三谷隆正、『世界観・人生観』より


遠い大昔の事を思い出せ。
わたしが神である。ほかにはいない。
わたしのような神はいない。

わたしは、終わりの事を初めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、

『わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。

イザヤ46:9-10



万軍の主は誓って仰せられた。

「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、
わたしの計ったとおりに成就する。」

イザヤ14:24




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