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北海道の自然


われは孤独である。しかし孤独ではない。

われにもわれの友がある。しかり、われは孤独であればこそ、かくも多くの友を持つのである。

友人、友人、世の言う友人とは何であるか。遊戯を戦わすの友人、時世を共に談ずるの友人、事業を共にするの友人、、、されどもこれわれらの特別に要求する友人ではない。

われらは真理を交換するの友人がほしい。

われらはこれに接触してわが全性に新光明を伝受するの友人がほしい。

われらは救われんための真理を探究せんために、常に神と角闘しつつある友人がほしい。

われらの欲する友は「独りで強き者」である。すなわち神に頼むがゆえに運動に加わらずして、独りで活動する者である。

すなわち完成せる個人である。すなわち友を求めざる人である。

これ、われらの求むべき、頼むべき友人である。

しかるがゆえに、われは孤独をもって満足する。

われは友に囲まれている者であるから、独りであるも、少しもさびしくない。

キリストは天にあり、聖霊はわが心に宿り、数万のわが真友は、われと共に信仰の戦いを戦いつつあると思えば、われにとりては、この世は実ににぎやかなる所である。

われら、主の再来を望む者は、神の聖国(みくに)に偽りなき聖き交際(まじわり)を楽しまんとて、独り孤独を忍びつつ、この世のさびしき旅途(たびじ)をたどり行く者である。



1901年7月『聖書之研究』より一部抜粋



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