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北海道の自然


われは孤独である。しかし孤独ではない。

われにもわれの友がある。しかり、われは孤独であればこそ、かくも多くの友を持つのである。

友人、友人、世の言う友人とは何であるか。遊戯を戦わすの友人、時世を共に談ずるの友人、事業を共にするの友人、、、されどもこれわれらの特別に要求する友人ではない。

われらは真理を交換するの友人がほしい。

われらはこれに接触してわが全性に新光明を伝受するの友人がほしい。

われらは救われんための真理を探究せんために、常に神と角闘しつつある友人がほしい。

われらの欲する友は「独りで強き者」である。すなわち神に頼むがゆえに運動に加わらずして、独りで活動する者である。

すなわち完成せる個人である。すなわち友を求めざる人である。

これ、われらの求むべき、頼むべき友人である。

しかるがゆえに、われは孤独をもって満足する。

われは友に囲まれている者であるから、独りであるも、少しもさびしくない。

キリストは天にあり、聖霊はわが心に宿り、数万のわが真友は、われと共に信仰の戦いを戦いつつあると思えば、われにとりては、この世は実ににぎやかなる所である。

われら、主の再来を望む者は、神の聖国(みくに)に偽りなき聖き交際(まじわり)を楽しまんとて、独り孤独を忍びつつ、この世のさびしき旅途(たびじ)をたどり行く者である。



1901年7月『聖書之研究』より一部抜粋



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内村鑑三について

私はキリスト教との出会いは、60歳過ぎてでNHk教育テレビの「心の時代」で内村鑑三先生のことが紹介されたのを見てからのことです。内村鑑三の「後世への最大遺物」を読んだ大勢の有名・無名の読者が勇気と希望をもらい、人生が変わって(コペルニクス的転換)神の証をした事実を読み感動しました。その後数々の著書を読みました。そして、近くの教会に生き、あるT宣教師とめぐり合い、T宣教師も高校生の時、担任の先生から内村鑑三のことを知らされ著作集を取りそろえ、影響を受けたそうです。

名前: Yamazaki [Edit] 2017-03-02 08:01

なおも未熟な日本人ん

今日読んでいる本「なおも未熟な日本人 成熟社会への道筋」の中に、内村鑑三について書いてある箇所があり興味深い「内村鑑三という人には私行上いくつかの欠点があったが、「やっぱり先生は偉い」と言って尊敬し、従っていった弟子が多くいた。これは内村の人物が少々の欠点をカバーするだけの偉大さも持っていたからだと解釈されるが、その弟子も偉かったし、成熟していたと思う。普通なら一つの欠点を見つけると全面的に否定してしまうところだが、「やっぱり先生は偉い」と言って従ったからである。

名前: Yamazaki  [Edit] 2017-03-04 18:00

Re: なおも未熟な日本人

Yamazakiさん、お分かち合いありがとうございます。

名前: Kinuko [Edit] 2017-03-07 05:34

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